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8年間考えてたどり着いた「歴史を学ぶ意味」とは!?

「今日は話せてよかった」

年末に祖父に言われた言葉だ。この言葉が出たのはひとえに私が歴史を勉強してたからに違いない。

私はこの言葉に歴史を学ぶ真髄を見た。
どういうことだろうか?

まあ、焦らずにまずは私の自己紹介をさせて欲しい。長くはなるが。

どの口が歴史を語るのか?

私は今年早くも27になる渋谷のスタートアップでエンジニアとして働いている者だ。そして、少しだけ歴史が好き。具体的には、佐賀県の県模試でトップ20に入る程度だが。

本当は謙遜せずに「この記事を読んでるテメェよりも100倍詳しいわ!」
と叫び散らかしたいところだが、世間体がある。

今回この口が歴史を語る。

なぜこの記事を書こうと思ったのか?

この記事はリベンジだ。年末に会心の出来の投稿をインスタでしたらいいねが6件しか来なかった悲劇に対しての。
今回はこちらでその雪辱を果たし、浅はかな顕示欲を満たせればと思う。

ほら、気づきかないだろうか?
タイトルがクリックしたくなるタイトルの鉄則通り数字を入れ、文末を疑問形にし、閲覧数を稼ごうとしていることに。

冗談はさておき投稿したらいいねこそ少ないものの読んでくれた人には想像以上に褒めてもらえたので、きちんとしたものをしたためておこうと思う。

この問いを考えるきっかけ

「歴史はなんのために学ぶのか?」

この問いについて考えるようになったのは大学受験の勉強が本格化する高校3年生の春頃からだ。この問いを考えるきっかけを語るためにまず私がどのように育ったかを語る。もう答えが出ると思ったあなた。残念。そんなに簡単に答えなんか出さない。

注意散漫で片付けられなくて、不器用なやつ

私を語る上でどうしても外せない要素がある。ADHDだ。軽めのADHDを小さい頃から持っていて、注意散漫さについては他の追随を許さなかった。
小学校の時、私は5年間地元のサッカークラブでキーパーをしていた。
キーパーというのは味方が攻めているときは暇なものだ。味方が攻めているときは確実に集中力が切れてじっと空を見ていた。それが原因でゴールネットを揺らされてしまった回数は数え切れない。
それでも監督は僕の集中力のなさをいじりつつ、暖かく笑ってくれたのはいい思い出。

ただ、この特質を良くないと思う人もいる。
私は手先も不器用だ。具体的には小学校の5年生のとき家庭科の授業で他の生徒が1時間程度で終わるエプロンを縫う作業も僕は5時間程度かかるほど。みんなが道徳の授業を受けている間、別の部屋で情けなさと悔しさの涙を堪えながらエプロンを縫っていた。
その時に私の作業を見に来る担任は、監督とは違って明らかに軽蔑していて冷ややかな目と罵声を僕に浴びせてくれた。この思い出は惨めな気分になりたいときにはぴったりである。

お元気ですか先生?あなたの僕に対する冷笑と罵声と体罰は今でも私の宝物です。ストレスのかかる毎日を送っている時は夜にあなたを思い出して飛び起きる程に。

歴史好きの少年

たまに先生のようにヘビー目なスキンシップをしてくる人が現れるが、概して私の周囲はいい人ばかりだ。
しかし、他人への劣等感は拭いきれない。

そんな中、小学校6先生のときに歴史の授業が始まる。
家族は歴史好きで、毎週大河ドラマを見て育った。最初の大河の思い出は功名が辻の舘ひろし演じる織田信長が本能寺の変で奮戦するシーンだ。
そんな家庭で育てば自然と歴史が好きになる。歴史の資料集を配られたその日にはそこに載っている歴史上の人物50人程度の名前とどこの時代に生まれたかとその人が何をしたのかを全部覚えたりしました。

次の日歴史の授業があったのだが、覚えたことを語るとみんなが「すごい、すごい」と称賛してくれる。どうやらこれはみんなができることではないらしい。

人生で初めて、不器用で人に迷惑ばかりかけた私が

「自分にもできることがあるんだ」

と心の底から思えた。

この時から他人に対する優越感と自信、そしてアイデンティを支えるものとして歴史が私の中で大きく君臨し出す。

大学受験

時は経ち、私も受験生になる。明治卒の父を越えたいという気持ちもあって、E判定しか取ったことがない早稲田か慶應に行きたいといい出すようになる。正気ではなかった。
そこで両校の受験科目を見ると歴史はあるが、申し訳程度の配点しかない。慶應のSFCに関しては歴史は科目に存在すらしない。
この時に思うようになる。

「あれ、歴史学ぶ意味ってないんじゃね?」

と。

この疑念は私にとって深刻そのもの。存在意義と優越感を与えてくれるものがなくなるからだ。

そこであらゆる人の発言を読むようになる。以下は偉人たちの発言。

愚者は経験に学ぶ、賢者は歴史に学ぶ

ビスマルク

現在を過去と違うものにしたいのなら、過去を勉強しなさい

スピノザ

現在というものは、過去のすべての生きた集大成である

カーライル

言いたいことは理解できるし、その通りなんだろうとは思う。ただ、私にとって疑念を消し去るほどの納得できる答えではなかった。

この疑念が私を苦しめ出す。しかし、8年を経てようやく答えが出る。

納得のできる答え

今日となっては去年のクリスマスに実家へ帰省。そして、ある日の夕食で母親が還暦になった話になるとそのはずみで祖父の半生の話にもなった。

祖父は美濃部達吉の「天皇機関説」問題が発生し、軍国主義が加速し出す1935年生まれ。玉音放送を10歳で聴いている。

日本史を勉強していた身としては村のみんなで泣きながら玉音放送を「政府に裏切られた」と失望しながら聞いた話や一般市民に向かってアメリカ兵が笑いながら戦闘機から撃ってきた話、戦争が終わりじわじわと生活が良くなり朝鮮戦争の始まる1950年になってようやく「死ぬことはない」と思えるようになった話、一番心に残っている首相はサムネイルの通り馬鹿野郎解散をした吉田茂だと言う。どの話も興味が尽きない。

恥ずかしい話、私は今まで祖父と表面的な会話しかできていなかった。なんだか祖父に対してある時は苦手意識もあった。ただこの日歴史を勉強していたおかげで祖父がいつどんなことを思いながら生きていたのかという半生まで深掘って話すことができた。

話が終わると祖父からこう言われた。

「今日は話せてよかった」

この言葉は本当に歴史を勉強していてよかったと思わせてくれた。そして同時に

歴史を使えば深く会話ができる

とも悟らせてくれた。

終わりに

最近の祖父は意識的にも無意識的にもよく死について考えていることが多いようだ。1週間強帰省した間にも複数回そういう発言をしていた。
先日祖父の姉が99で大往生したことと自身も心臓が苦しくなって12月に検査入院したことが大きな一因だろう。
考えたくはないが、別れが頭をよぎる。

皆さんは大切な人と最近心の底から満足のいく会話をしただろうか?
仮にその人が明日いなくなったとして、最後があの会話で良かったと言えるだろうか?

私は言える。断言できる。


今日は三ヶ日最後。「三ヶ日暇すぎるんだけど…」と適当な言い訳をして大切な人とline通話をするきっかけにでもこの記事がなってくれたらキーボードを叩いた甲斐があるというもの。オススメは相手の半生を聞くことだ。

また、この記事を読んでも勇気が出ない人もいるだろう。安心してほしい。たとえ変に思われても明日には忘れてる。みんなあなたから突然来たLINEを明日まで覚えてるほどあなたに関心はない。

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