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これは僕だけの話

昔話をしようと思います。

代々、農家の家系で大腸炎という難病指定の父親と、
韓国から働きに出てきた母親の間に生まれた田舎育ちの一人っ子の話です。

僕は帝王切開で産まれました。

42歳の父と44歳の母、高齢出産でした。

子供の頃の記憶はほぼないのですが、少しやんちゃだけどいい子だったらしいです。

お腹が空いたら泣いて
欲しいものが買って貰えないと泣いて
海入ったりとか高いところとか怖いと泣いて

そんなごく普通の赤ちゃんでした。
 
物心が着いた頃に母親は母方の祖母が体調を崩したということで韓国に戻り、3歳で父親と祖父と祖母、祖父母の5人家族でした。

幼稚園では、先生にビンタされた記憶があります。その先生親戚なのに笑

ファンタを飲んで脳震盪起こして病院に運ばれたりもしました。それから小学校3年まで炭酸が苦手で飲めなかったのですが今はよく飲みます。

インフルエンザはワクチンを打った時に必ずなっていたので、ワクチンを打たずに生きてきました。

無論今でもワクチン関連はコロナも売っておらず、上京3年目でやっとコロナになりました。

しぶといっすね自分

また、母親は韓国に行っても何かしらで帰ってきてたらしく、小学校3年生が最後に母親にあった最後の記憶で長い髪を引っ張って遊んでいたとか(恥ずかしい)

韓国には2回子供の頃に連れられて行きましたが言った記憶ナッシングなんで、韓国語話せません。

中学2年生で意味を知ったのですが、母親が何度も教えて来ていたフレーズがあります。

オンマ ボボシポヨ サランヘヨ
お母さん 会いたいよ 愛してる

微塵も思ってないことを詠唱させられていたと知り、衝撃を覚えました。

さて、一人っ子で片親でしたがこれが僕の普通だったので、兄弟やお母さんがいる家庭を羨ましく思ったことはないのですが、他人と違う家庭に育ってることもさほど気にしてなかったのは地域の人がいたからかなと思います。

地域の人の人情や温かさが大好きでした。

大した親でもなかったですが、とにかく過保護で厳しい親と昔ながらの人達に囲まれて育ちました。

母親はそれから韓国で、焼肉屋、服屋、パチンコ屋を経営してたみたいで中学に入ってからなんと全て事業が潰れて交通事故に合って入院しました。

なんか大変だなあと思ってたら、鬱になって病んだ挙げ句歌手になりたいと一念発起して民謡歌手になったらしく定期的にアー写とYouTubeのミュージックビデオを送って来ました。

bot並に活動報告してくるので、マジで怖かった。

しかも、思春期の男子としては母親の顔が書いてあるタオルやブロマイドやマグカップなど、誰が欲しがるんだろうと疑問しかなかった。いまは御歳還暦迎えるくらいでやってるらしいので尊敬すら覚えますが、父母共に子供への愛は感じますが一方的且つ重すぎるので連絡してません。

父親はメールの文書がおぢさん構文すぎて、句読点の代わりに❤️を使ってきます。

まぢできもい。。。パパ活してる人からおぢさんのキモさを聞いた時に凄まじく共感しました。

最近♥️→🤍に変わったみたいでなんの変化なのか気にはなったものの突っ込んではいけない気がして何も言ってません。

元々過保護なので連絡無視ってたら、大学の教務課と警察から連絡して欲しいと来たことすらあります。

父親の場合は大腸炎の、難病に若い時からなっており、外で働くことが出来ないのでずーーと農家をしてました。
ステロイド治療を長年してましたが、高校に入った頃くらいにお薬ができたみたいで建築関連の仕事しつつ、結婚コンシェルジュしつつ、農家してます。

バツイチのくせに結婚コンシェルジュするのはよくわからないんですが、メールの❤️もそのせいかもしれない…

でもこんな親ぜったいモテないと思う🤔

さて、そんな特殊な親を持ちながら
子供の頃は生き物が好きで、虫取りをして、飼ったり標本作ったり

山からウサギや猫やリスを拾ってきて育てたけど牛乳飲ませすぎてしまって凍死させてしまったり、ダチョウの卵を取ってきて孵化させようとしたら踏んでしまったことすらあります。

釣りをしたり、山を昇ったり、星を見たり
生粋の田舎っ子ですね。

正月にはおじいちゃん達と将棋や花札で遊びました。

おじいちゃんも凄い人で、心臓発作起こして1人で車運転して病院いったり、怒号で飛んでるとんび落としたり、、、覇王色もってる…?😇

タバコを箱で買って若葉という銘柄吸ってて車のガラス拭くとウェットティッシュが茶色くなったり、
家で薪ストーブだったのですが、小屋いっぱいの薪を毎年切ってました。

副業で建築の土方に行ってたので、小屋作ったりしてたり、冬は除雪を毎朝しており、家から出ると目の前は3メートルの雪の壁があり、熊よけの鈴をつけながら小学校へ登校してました。

数メートル先には猿やたぬきがいて、まじもんの田舎ですよほんと

おじいちゃんめちゃくちゃ食べるのも飲むのも好きで、小学校に上がるタイミングでタバコやめてくれましたが、

辞めるまでまじガープそっくりぃ

お肉とかスーパーで買う文化なくて、精肉所とかの加工する工場とかで3kg~買うとか魚も市場gじゃなくて1匹〜で買うとかしてました。

夏は親戚中集めてバーベキューするのですが、めちゃくちゃ美味しかったです。直で買うから鮮度がいいすよね。

あとおじいちゃん手の皮厚すぎて熱した鉄板素手で持ってた時とかはさすがに心配しましたがめっちゃあっついって言うだけで全く動じない人でした。

人の力は無限ですネ☆

クリスマス近くなると生きてる烏骨鶏を買ってきて鳥の血抜きをするために鳥の首をちょんぎって首を雪に埋めて血抜きするんです。

首切るとマジで血が一直線に噴水みたいに吹き出すんすよね。。。

食欲無くなるしかない光景😇

ワンピースのダダンを思い出しながら、自分の家もしかして山賊なの?と思ってました。

家系的に本家で歴史ある家だったので田舎の中でおじいちゃんの顔と名前を知らない人はいませんでした。

まじで、覇王色みたいなの使えるし、意外と器用だったのですが一点だけいうとしたら

中古品大好きで集める癖があるところ

おじいちゃんとおばあちゃんと休日は出かけてラーメン食べて温泉はいったりしてたのですが

中古品毎回買ってて、それに紛れ込ませてエロ本も買う癖があって元気すぎんか?と思ってました。

エロ本コレクションして土蔵に棚いっぱいのエロ本コレクションが…せめて隠してくれと思いましたがまあ、自分より思春期の中学生見ている気分でした。

おじいちゃんの好みは熟女というどうでもいい知識を蓄えながら…

さて、僕は小学校に入ってからはゲームを買ってもらい、ポケモンとロックマンにハマり、デュエマなどのカードゲームにハマり

そして中学校に入るタイミングでアニメにハマり

高校卒業までありとあらゆるアニメを見てオタク文化に勤しみました。1日5本アニメを回して見て1週間35~40本のアニメをノルマとしてみていたクソオタです。

中学校のクラスの3分の1をオタクに染め
図書館にラノベを置くために生徒会に入りました。

もうただのクソオタ陰キャです。

そんな僕がなんで今の社交的な陰キャになって、フリーランスの仕事や様々な知り合いが増えたかというバックグラウンドを書きましょう。

そろそろ真面目なことも書きます

東北出身だったので

2011.03.11

東日本大震災

僕は1度死にました。

11歳の僕には受け入れ難い事実でした。

授業受けてたら急に揺れて、うちの町が給食発祥の地だったので給食ルームがあってそこに集合してテレビを付けると建物がどんどん壊れていく映像と津波で人が流させる映像をみて震えが止まりませんでした。

その日はすぐに家に返され、金土日ずっとテレビを見ていると、津波に流され、死者が何人とか行方不明が何人とかいうニュースが沢山流れているのを見ました。

親戚が多かったので被災した親戚もいました。

そんな事件を機に

僕はやるせなさを感じ
自分の無力感や、どうしようも出来ない悔しさと
この先同じようなことがあったら

大切な人達を守れない恐怖に襲われました。

人情が厚い周りの人達は、寿命や病気、そしてこのような災害で死んで行くんだと。

僕もいつか死ぬんだと。

ちっぽけな自分や、自分よりも生きたいと思っている人たちが世界で死んでいくことを感じ自己嫌悪と自分が生きていることに対しての罪悪感を覚えました。

死の恐怖よりは、他人の死を見ていることしかできないという恐怖がありました。

また、東日本大震災は年月を経ても人々の心に傷を残し、建物や町がどんなに復興したとしても

大切な人を失ったという心のキズ
恐怖という形のないトラウマ

これらは完治することがない。

災害で気づいたことは
不条理なことから大切な人を守れる強さを僕は持たなければいけないということでした。

夢や目標がなかったそれまでの僕は死にました。

僕の夢は「世界平和」です。

毎年短冊にはこの言葉を書いているし、流れ星や夜空に願うことは彼女がほしいとかお金が欲しいとかではなくこれしかありません。

それから子ども国会という参議院主催のイベントに県代表として選ばれ、地域復興、地域活性化について国会の委員会でプレゼンしたりして、市長や県知事と議論を交わす意識高い子どもになり

中学、高校では僕のキーワードは社会貢献、誰かの役に立ちたいとボランティアで学内で1番ボランティア活動に参加し、参加率は全国1位でした。

被災地への物資の配送
募金
託児所、介護施設のスタッフ
ゴミ清掃
街のイベントのスタッフ
ボランティアをする人達の研修参加や発表などなど

自分の時間は勉強とアニメとボランティアにつぎ込みました。

そして医者になって命を助けることができたらと思って浪人をしたのですが、、、

ボランティアをしたりや医者になっても、目の前の人を助けることは出来ても大きな数は動かせない。

国境なき医師団とかに興味があったけど現場では医師たちが現地人を助けた恩を売りレイプしてたり

現場の医者は命が無くなることを感情を左右されないとか

ボランティアで東日本大震災にいったスタッフが影響で梅毒が流行したり、望まぬ妊娠が増えたりなど

世の中腐ってるなぁと思いながら、高校生活で得たのは自己犠牲の精神

自分をすり減らしながら人のために行動するなんて

綺麗だという人もいるけど歪な存在だなと思いました。

そこで僕は、ちゃんと価値として社会に貢献することが仕事やビジネスなんだと気づきました。

将来的にメンタルヘルス、人のこころを治すことで起業をしたい。また、働きながらや働いたあとに誰かのために行動できる世界的なボランティア活動をするNPOを作りたい

言語化するとこうなります。

気づかせてくれたのは

僕は僕の人生を生きてほしい。君の人生の主人公は君だけなんだよ

という死んだおじいちゃんの弟さんからの言葉でした。

浪人する時に、家族以外で唯一僕を応援してくれた人です。

浪人を考えた僕は、家族と親戚中から猛反対されました。

田舎なもんで僕に提示された選択肢は以下です
・実家を継いで農家になる
・公務員になる

この街の田舎という狭い世界で一生を終える選択肢しか無かったんです。

大学に行った人はうちの家系でおじさんだけでした。

おじさんは学習院の夜間に行き、働きながら都の環境庁に入社し死ぬ前まで働き上げた人でした。

もちろん、僕よりも50年以上前の話なので周りの猛反対を押し切り、家出をして親戚の家に上がり込み、学費と生活費は現場仕事で稼いでやりくりをしていたらしいです。

経済格差というものがまだまだあり、大学進学を諦める一番の理由はお金なのが田舎の学生たちを囲っている現状です。

もちろん僕も裕福な家庭家庭でないのと、ひとり親だった僕が唯一他の家庭と感じたのは経済状況でした。

小中は学費を出してもらってましたが、私立の自称進学校に特待生として入学した僕は、学費全額免除と毎月1万円貰いながら勉強してました。

そのお金の使い道はオタクだったのでソシャゲのガチャでしたが(笑)

誰にも文句言われないように高校の内申点は5段階中5.0でした。

今では限界大学生してますが、一応優秀ダッタンデスヨネ😇

ただ、大学だけはどうしてもお金を工面出来ないと入れなかったので周りの反対がすごく辛かったんです。

浪人する時におじいちゃんが気を利かせてその弟さんに僕を頼むと言ってくれたんです。

埼玉のおじさんの家に居候させてもらいながら浪人することになり、予備校を決め、時代は令和になると発表された3月ですが

4月になり令和が始まるというタイミングで、おじさんは心臓発作で急逝しました。

僕の家系体型と心臓が弱いというのが遺伝でして、僕自身も死に方はそうなんだろうなと思ってます。1日1日を大切に悔いなく生きようと思ってます。

おじさんの家で寝てたら急に奥さんの叫び声が聞こえて寝室に行くと青ざめたおじさんがいました。

その時初めて青ざめたという言葉にふさわしい人の顔の色を見ました。まだ、息はあるようで意識が少しづつ無くなって行くような状態でした。

おじさんの息子も駆けつけすぐさま人工呼吸をして、僕は救急車を呼び、叔母さんがパニックになって発狂しているのを宥めながら玄関から運べるように荷物などをどかしていました。

救急車が駆けつけ、それから病院に運ばれ、息子さんが同行して、生死をさまよっている間に親戚中に電話をかけ、次の日から親戚中が駆けつけました。

6時頃に息子さんから奥さん電話がきて

ダメだった、はは

と一言が。唯一浪人を応援してくれていた頼りにしていた人の死に直面し、泣きたいのを我慢してましたが、奥さんはずっと泣いていました。

事情を親戚中に話して、葬式の準備を息子さんがしたり親戚の方々が来たりしている時に僕の話がでました。

その時になって知りましたが

おじさんの身内や親戚はおじさん以外僕の浪人に反対していたということです。

周りの反対を抑えながら、大丈夫だからと僕に言ってくれていたおじさんは様々手を回していたり、僕のために退職予定を1年ずらしていたので心労が溜まっていたんだと言われました。

夢とか持つことはいい事だと思うけど与えられた環境で咲くこともできるんじゃないか。
おじさんは君のせいで死んだんだ。

そんな心無い言葉を言われました。

人間って怖いですね。自分たちの余裕が無いとすぐ人のせいにする。

でも、その人たちにとって、その人たちの世界や見え方としてはそれが事実なんです。

僕は初めて人を殺してしまいました。

どんなにいいことを行っても、行動に移していても

周りにいる人の質で

欺瞞と言われたり、足を引っ張られたりします。

葬式が終わり、そこに住んで居られなくなった僕は予備校を解約して、実家に帰そうという話になっていました。

帰ったら公務員試験を受けさせて公務員にさせるとか、実家を継がせるとかもう二度と外の世界に行けないようにと。色々な人から色々なことを言われて、僕は素直でいい子だったのでもう頭が処理しきれません。

僕の人生の決定権が何故、その人たちにあるんだろうと思いながらおじさんの言葉を思い出します。

「君の人生の主人公は君だけなんだよ。君は君の人生を生きていいんだよ」

いい子を辞める決断をしました。

僕はここで2度目の死を味わいます。
おじさんと一緒にそれまでの自分は殺しました。

決断とは決めて断つと描きます。

僕が断とうとしたのは今までお世話になっていた人達です。

親戚や親に勘当したいと、あなた達とは関わりたくないと話をして、実家には戻らず父親に不動産の契約だけお願いしたいとハンコと名前を貸してもらい。

家出のような形で新潟で一人暮らしをしながら宅浪をしました。

そう入っても家族は家族なので仲が悪くなったりはしてないです。元々仲良くなかったのでさほど変化なかったんですが笑

浪人のときは半年間楽しく、半年間地獄を味わいました。

バイトは社員並みに家庭教師と、塾講師を週5勤務で毎週中学生30人程と高校生5人ほどを、受け持つようになりました。

半年間ほどは中高の友達が話してくれてたりしたのですが、それから彼らも大学生活や社会人生活が忙しくなり疎遠になったり、そもそも新しい人との交流が無くなった僕は残り半年孤独との勝負だったのを覚えてます。

人との繋がりを実感することが自分にとって大切なんだなと知りました。

受験期の11月になって、週5で勤務していた塾では塾長が気難しい人でかなりモラハラを受けていました。

机の教材や文房具をぶちまけられたり、
大きな声で怒鳴られたり
理不尽な嫌われ方をされました。

それもキツさを感じて辞めることにしました。
某やる気スイッチの教室だったのですが僕のやる気スイッチは入らなかったようです。

ともあれ、知識や経験は財産です。

大学生になっても2年生までは塾と家庭教師のバイトを週1、2程度趣味でつづけていました。

そして受験が終わり、心理学を学ぶために進学して上京しました。

入学金はおじいちゃんが出してくれました。エロジジイですが本当におじいちゃんには感謝しかありません。

やっと大学生になったはいいものの

コロナ禍

夢見た大学生活はほぼ何も始まりませんでした。

アニメソングの、ライブにも行けず

新しい人との対面の交流もできず

絶望です。いきなり壁にぶつかりました。

どうしましょう。そんな時にオンライン飲み会のニュースをみて

オンライン新歓というものを思いつきました。

オンラインのzoom上で新入生同士で交流し始めました。

ただ、集客してたらアンチ出てきて、出会い厨とか言われたりしたのは悲しかったですが来てくれる人が増えて良い経験をさせてもらいました。

それから、様々な人と合うようになり

迷い易いコロナ禍で社会を知らない学生は

宗教の勧誘とか、大学生の学祭実行委員長だった先輩とか、いい人を装った大人からマルチの勧誘や学生を利用しようとする大人達を多々見て来たのですが

その中でフリーランスを初めお金を稼ぎ、自力で学費や、生活費を払えるようになったことで少しは自立することが出来て生きれてるかなと思ってますが、この僕が広げた人との繋がりを通して今ではまちづくりとキャリア支援の仕事をさせてもらってます。


まだまだお金を稼いだり、人間関係の難しさは多いんですけど悔いない学生生活の残り1年を過ごそうと思います。

僕のビジョンは
一人一人のらしさを創る

人を創り、町や制度などの環境を創り、社会と人の未来を創っていく。

経済問題がこんなにも山積みで、こんなにも周りの人によって人は左右されてしまう。

行きずらさを感じる人や不条理なことで諦めなければ行けないことを1人でも無くしたい。

人よりも苦しい経験や気持ちを味わっているからこそ

本質的に人に優しくできると思ってますし、人が好きな僕はフラットなコミュニケーションを取ることで、人との繋がりを大切にして行けると思ってます。

将来的にやりたいことは記載させてもらいましたが今の仕事をしているのは

人を変える前に環境を変えるためのまちづくりと
本気で生きる人を増やしたり、少しでもポジティブで優しい人を創るために誰かの人生に向き合って支援するキャリア支援は今の僕の天職です。

そしてそんな人を増やしていくことが、僕の夢の世界平和に繋がるのでと信じて。

今日も手に入れた明日という僕の時間を使って行こうと思います。

ともあれ、僕にできることはほぼないので自分が凄いとは思いません。

本当に周りの人のおかげで今の僕は生きているなぁと感じてます。

出会ってくれた方々にはありがとうの気持ちでいっぱいです。

読んでくれてありがとうございました。

僕の話はこれくらいで終わりにして、ここからはあなたの話や僕らの話をしていきたいなと思います。

大事なのは今とこれからってことで、数日後だけどあけましておめでとうございます

2022.12.26 生田元慶

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