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『どんなときも』自分に誇れる私でいたい。

槇原敬之さんの名曲のひとつ『どんなときも』。

”辛い気持ち抱えていても 鏡の前笑ってみる まだ平気みたいだよ”

『どんなときも』より

”迷い探し続ける日々が答えになること 僕は知ってるから”

『どんなときも』より

だいすきな歌詞だ。

『どんなときも』は、通勤時間の滅入ってしまいそうなときに、心を包んでくれて、「大丈夫だよ、行っておいで」と背中をそっと押してくれる応援歌だった。



会社員として働いていた時、通勤時間に車の中で毎日流していた。

”どんなときも どんなときも 
僕が僕らしくあるために 好きなものは好きと 
言える気持ち 抱きしめてたい”

『どんなときも』より

まるで自分に言い聞かせるように。「好きなものは好きと言える気持ち」を忘れないようにって。

でも当時の私は、好きなものを自分の中に閉じ込めていたように思う。やりたいことよりも、やらなければならないことを優先していた。たいていの大人はそうだろう。

この曲の中にある一文。

「昔は良かったね」といつも口にしながら生きて行くのは本当に嫌だから

『どんなときも』より


この歌詞を聴きながら、通勤中の自分に向かって「今を誇らしく生きているよ」と心の中で訴えた。でも今思えば、この歌詞に必要以上に反応していたのはきっと「昔は良かったな」と思っていたからなのだと思う。



学生時代、友達と通学路で何時間も立ち話をしていたのが懐かしい。文化祭の準備に明け暮れたり、カラオケに行ったり、恋バナで盛り上がったりしたあの日々。

学校を休んだら、掃除当番や日直は誰かが代わりにやってくれた。でも、大切な友だちが「昨日はつまらなかったよ」と言ってくれるたびに、私を”誰の替えにもならない存在”だと思ってくれる人がいることに、胸が熱くなった。
温かい心のつながりに満たされていた。

あのころは、自分という存在に対する疑いがなかったように思う。

でも社会に出て大きな荒波に呑まれて、どんどん自分が何者か分からなくなった。

会社で私が迷惑を掛けたら鬱陶しそうに、眉根を寄せられる。少しでも役に立てば、どんどん仕事が回される。有休を取ると「楽しかったですか?」とは言われるけれど、「寂しかったよ」と言われることはない。

私の存在は会社という歯車のひとつ。
当然のこと。わかっていたことだ。
それが稼ぐということ、生きるということなのだから。

でも会社にいる人だってみんなAIじゃない。心があるはずなのに、どうしてこんなにも遠いのだろう、と思う。

談笑はできるし、冗談も言える。
それなりに楽しく過ごすこともできる。
でも、その先に温かいものを感じられないのが、むなしくて。

代替の利く「ひとりの大人」であると痛感させられる日々が哀しかった。



だから、私は必至で自分を正当化しようとしていた。「好きなものは好き」そう言えるから大丈夫だ、と。その言葉だけに縋って、必要以上に好きなものを好きであろうとしていた。

この歌を聴いて、「良い曲だな」とか「うん、頑張ろう!」と明るい気持ちを持てる人は、きっととても幸せな心の状態なのだと思う。


でも、もしも歌詞が自分と程遠くて眩しく感じてしまったら。こうなりたいと心臓がギュッと締めつけられたら。「今の自分は間違っていないから!」と変に頑固になってしまったら。

それはきっと、心のどこかに靄がかかっているのだと思う。

応援歌というのは人に勇気と行動力を与える素晴らしいもの。でも応援歌に縋ってしまっていたら、それはもう”逃げ”だと思う。現実逃避ほど苦しいものはない。


会社を辞めて、大好きだった「文章を書く」ことを生業にしている今、不安定な生活で焦ることはある。けれど、過去の自分をうらやましく思うことはなくなった。

今を生きているんだと思える。

大切な人たちと過ごす時間を作ることができて、「好きなものは好き」と堂々と言えるから。


この記事を読んでくれたあなたは、応援歌に縋っていませんか。応援歌を明るい心で受け止ることができていますか。

大切な歌、自分に勇気をくれる歌を”逃げ”の道具にするのは辛いから。だからどうかそうなる前に、自分自身と向き合ってください。

心が健康なら「好きなものは好き」だと言えるはず。


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