沖縄県民は「日本国民」か?
早稲田での公演が終わり、今、沖縄に向かう機上において、これを書いている。そして、機上でWifiが使えるのにちょっとびっくりしてる。初のJAL。
さて、沖縄で『俺が代』という作品を、今、上演することは、多分、政治的にとても大きな意味を持つ。だから、僕と清水とは、このツアーの稽古初日に、「沖縄で上演することに照準を絞る」ということを確認した。
じゃあ、「沖縄に照準を絞る」とはどのようなことか?
沖縄には、複雑な歴史と、それによって生み出された意味がつきまとう。それは、福島が原発事故によって「フクシマ」と表記されたことに似ている。人は「沖縄」を語るつもりで「オキナワ」という意味を語ってしまう。そして、沖縄についてほとんどなにも知らず、友人や係累などもほとんどいない僕にとって、沖縄の「意味」に対してアプローチをすることは手に余ることだ。もしも、そんなプロセスを目指せば、僕らは容易に「正義」に絡め取られてしまうだろう。そして、それは、全くセクシーな表現になりえない。
だから、僕は(こっそりといろんな勉強はするものの)「憲法を読むこと」しか考えていないし、どのように読むことができるのか、しか考えていない。そうして日本国憲法を読んでいくと、「日本国民」という言葉が引っかかってくる。沖縄県民は「日本国民」なのだろうか?
この憲法が公布された昭和22年5月3日は、沖縄はアメリカ軍に占領された「アメリカ世」だった。彼らは「日本国民」ではなかった。「琉球政府章典」には、「琉球住民」と書かれており、沖縄において「憲法記念日」は、65年まで祝日ではなかった。
では、2019年の今、沖縄県民は「日本国民」だろうか? 日本国民だ。当たり前だ。いや、でもそうとも言い切れないような気がする。じゃあ「日本国民」って何だろう? 「本土」に生まれ、住んできた自分は「日本国民」だろうか? 「日本国民」って誰ですかね?
「沖縄で上演することに照準を絞る」とはそういうことだ。決して「虐げられた沖縄の人々と連帯しよう」などという不遜な考えを持っているわけではないし「沖縄の現実を直視せよ!」みたいなスタンスを取るつもりもない(A&Wでハンバーガーを食べるのも「沖縄の現実」ですよね)。沖縄という場所で『俺が代』という上演をすることによって、憲法の意味は大きく異なり、それは本土に/自分自身に跳ね返ってくる。それによって、この作品も、この憲法も、違った様相を帯びてくるし、帯びたほうがよりセクシーな作品になると思っている。
アトリエ銘苅ベースの公演は5/5 15時〜と5/6 15時〜。
5/5のアフタートークには「せやろがいおじさん」が来るし、5/6は、ツアーの千秋楽ということで、きっと特別な上演になるでしょう。終演後には座談会を行います。泡盛でも振る舞ってみてもいいかもしれない。
その他、5/3夜には、清水によるワークショップ@アトリエ銘苅ベース、僕がナビゲートする「憲法を読んでみる」@ジュンク堂那覇店があります。
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