まだ見ぬ花に水をやる


私はいつだって10年後の自分に期待している。


誰と、どこで、何をしていますかと将来の自分にききたい気持ちは微塵もない。知らなくていい。ただ理想に美化された可能性を妄想しては口角があがる。


あれは3年前の夏休み、当時住んでいたボロアパートの窓からお天気花火(号砲花火のことをうちの実家はそう呼んだ)の音が聴こえて、ひとりでふらっと祭りの屋台を回りに出かけたことがあった。幹線道路を一部通行止めにして露店が並ぶ、そのあたりでは特に大きな祭りだった。左手にバター醤油で味付けされた焼き牡蠣、右手に(人目を気にしてハンカチを巻いた)缶ビールを持って歩いていたら、誰かにいきなり肩を掴まれた。振り返るとお互いの鼻先がくっつくほどの至近距離に彼女が立っていた。目に刺さるレモンイエローのTシャツを着たその中年女性はうわっと一気に何か話したあと、私の履いていたスウェットパンツの左ポケットに小さな紙袋をねじ込んで去って行った。

咄嗟に何か話しかけられると言葉が認識できないのって私だけだろうか。小さい頃から急にかけられた声は高確率でバラバラの「ひらがな」で聴こえて、全くまとまりのない塊でごちゃごちゃっと頭に流れ込んできてしまう。

だからあのレモンイエローのおばさんの話は覚えていないし、左ポケットにねじ込まれた紙袋から茶色くて粉っぽいかたまりがごろりと出てきたときは思わず「ひっ!」と悲鳴をあげてしまった。

虫の幼虫か、動物のうんちに見えて咄嗟に後ずさったそれの正体は球根だった。

球根ってあれね、チューリップとかヒヤシンスの種になるやつ。

とりあえず攻撃性のないものだとわかったので触れてみる。形や色を観察し、特徴をグーグルの検索フォームに書き込んでみるも絞りきれない。それが入っていた紙袋は白無地で、ヒントになりそうな物も同封されていなかった。どうしようもないのでしばらくテーブルの上に鎮座させておく。夜になって、晩ごはんを食べながらそれと向き合っていたらなんだか愛着がわいてきた。

とりあえず、植えてみるか。

この時期にタダで配り歩いていたのだからおそらく植え付け時期は今頃ということだろう。水をやるくらいの世話はしてやってもいい気がする。

かくして正体不明の植物を育てることになったわけだが、これがなかなか面白かった。

なにせいつごろ芽を出すのか、どんな花を咲かせるのかがわからない。冷やかし半分な気持ちで始めたのに、毎日水をやるのが楽しみになった。1リットルサイズのペットボトルの上2/3を切り落とし、底に穴を開けたお手製の鉢の中でそれは根を張り芽を出した。可愛くなってホームセンターで液体肥料など買ってみる。

冬になると葉の特徴もはっきりとわかるようになり、それがチューリップであることは春先に膨らみ始めた蕾を見て確信に変わった。ピンクに近いオレンジ色だった。思っていたより華やかだねぇなどと話しかけたりした。そうしてよくわからないまま愛情を込めてベランダに飼った居候は、4月中旬のある朝、見たこともない鮮やかな花びらを開いて陽に揺れていた。


あの瞬間ふと、こんな風に自分を育てたいなと思った。

先のことなんてわからないけど、とにかく自分を育ててやりたいなと。

そして、今ある焦りや先走る不安を何年後かに

「そんなこともあったねぇ」
「あの時はほんとに苦しかったなぁ」

と笑い飛ばしたい。
最終笑えたらオールOK、それでいい。ひとりきりでも楽しそうに揺れる花をぼんやり眺めながら、そんなことを思った。


こんな風にありたいなと思う自分がいて
こんな風になるだろうなと思う自分がいて

でも結局どっちにも当てはまらない自分がいるんだろうなと予想したりする。


いつ咲くのかも、どんな花が咲くのかもわからない。
わからないからこそどこまでも期待し続けられるし、楽しみは尽きないのかもしれない。


私はいつだって10年後の自分に期待している。

あのときまだ見ぬ花に期待したように、将来の自分に期待している。

#家庭菜園 #成長 #悩み #将来 #エッセイ #日記

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