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母のおうち時間

今朝、母から電話があった。

暇で暇でどうしようもない。
あんたたち一体何して過ごしてるの?

とのこと。

ちなみに私はコロナウィルス大流行の影響を受けてかれこれひと月近く自宅待機中。つまり社用スマホ片手に家で過ごすことが仕事だ。とても暇である。
同棲中の恋人(ナチコ)の勤め先はギリギリまで粘っていたけど、先週遂に在宅勤務が言い渡され、今はふたりして1日中家にいる。

バタバタ働き詰めだった時期は
「まとまった休みが取れたらあれがしたい」
「時間ができたらこれをやってみたい」
とあれこれ計画していたのに、そのどれもが外に出ることを前提としていて叶わない。
そんな若者ふたりがどうやって暇疲れを解消しているのか、母はその知恵を盗むべく連絡してきたというわけだ。責任重大である。

とりあえず思いつく休日らしい過ごし方を提案してみたけど、ことごとく突き返された。

「小説でも読んでみれば?」
「いやぁ、最近ほんまに老眼が辛くてさ 」

「電子書籍は?」
「ずっと小さい画面見てると肩凝る」

「映画は?Netflix入ってるでしょ?」
「じぃっとしてるとなんか悪いことしてる気分で 」

「裁縫か編み物は?得意やんか」
「喜ぶ人はおらんし、作り甲斐ないもん」

とまさに"あぁ言えばこう言う"

まったく、この人は昔から自分のために時間を使うのが苦手な人だ。というか、ゆっくり過ごすことは罪だと思い込んでいる節がある。一緒に暮らす弟と父が仕事に出かけている時間は尚更、とにかく動いていなければ息が吸えないような女なのだ。
私の穏やかな休日プランをあれこれ言い訳して却下する母に、ならばもういっそ母の興味とは正反対の角度から切り込んでやろうと「なにか勉強してみたら?」と提案してみる。電話の要件を聞いた時点では全く勧める気のなかったことだ。

「勉強かぁ!例えばなんの?」

え、うそでしょ?

言い出しておいてなんだけど、まさか自分の母親がそれに興味を示すとは思っていなかった。手応えのある反応にこちらが困ってしまう。

「資格、とか?」
「取ってどうすんのよ。お母さんもう50よ?」

「じゃあ語学は?」
「韓国語はちょっと興味あるけど…」

「オンライン教室とか探してみたら?」
「お母さんそういうの疎いから、ムリムリ」

「勉強してみたいことないの?」
「うーん…」

どうやら本気で考え込んでいるらしい母の返事を待ちながら、私はテーブルに重なった参考書をめくった。表紙に並ぶ「建築士」の文字を視線でなぞると、なんだかか肌がこそばゆい。

実のところ、私が今まさに資格の勉強をしている真っ最中なのだ。

中学生の頃から憧れた職業だった。高校を卒業してもその夢は変わらなかった。その夢はどこかで諦めたわけではなく、今の仕事にそれ以上の魅力を感じた時点で自然と消滅した。それは事実だ。
なのに、どうして今更また向き合う気になったのか。
それは家にこもりきりの生活にうんざりして時間の使い道を模索した時、自分が二級建築士の受験資格を持て余していたことをふと思い出したからだった。受験に必要な指定科目は大学在学中に修めている。私は学業との相性がよくないし、どうせすぐ飽きるだろうと軽い気持ちで始めたことだった。それが暇疲れのストレス発散に有効だったらしく、気がつくともう2週間も続いている。

なんだかなぁ

夢を叶える努力を楽しめないほど必死だったあの頃を思い出しかけたとき、母が電話の向こうであっと叫んだ。

「ピアノ!ピアノやってみたかった!」

初耳だった。

なんでも昔から楽器ができる人に憧れていて、私を妊娠してからは我が子にひとつでも教えてやれるものを増やすべくピアノ教室に通おうとしたらしい。

「ほら、お母さん独身時代に保育園の事務仕事してたって話したやろ?保育士さんたちの弾くピアノが毎日楽しそうでなぁ」

教室はつわりがひどくて結局諦めてんけどな!と豪快に笑う母の声からわくわくが伝わってきて、恥ずかしいような照れたような気持ちになる。

夢があったのだ、母にも。

私が誕生し、その4年後にさらに弟を出産。もはや自分のやりたいことなんて見えないくらい必死で子どもたちへ愛情を注いだ彼女は、幼稚園でときどき耳にするピアノの音を懐かしい気持ちで聴いていたのだ。

ほんと、なんだかなぁ

私が過去に憧れた夢を今になって引っ張り出してきたことを知ったら、母はなんと言うだろうか。

もはや目標ではない今、参考書に向き合ったところであの頃ほどの熱量は湧いてこない。しかしだからこそ気負わず、純粋に楽しめているような気がする。いまだからこそ、なのだ。きっと。

とりあえず安い電子ピアノを買ってみると言って、珍しく母の方から電話が切れた。

人は何かに没頭するとかなりのエネルギーを消費するらしい。私はここ最近、運動もせず家にいるのにきちんとお腹が減るし、夜はぐっすり眠れている。

母が新しい習慣を楽しめますように。
そしてたくさん食べてしっかり眠って、ずっと健康でいてくれますように。

私は静かになった電話口に耳を当てたまま、実家のダイニングで体を揺らしながら電子ピアノを弾く母と、その楽しそうな音を聴いて玄関口で顔を見合わせる弟と父を思い浮かべた。

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