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創作がしたい私⇒無意識に苦痛を求めている?


私は創作をしたがっている、でも出てこない。
なにかを生みだしたがっている、でも出てこない。


生み出すのってとても大変なんですよね。
やっていて、創作という「行う動作」自体が楽しかった時は無いんです。
思い出すと、一度もなかった。
できあがるまで、生きることを忘れるようにのめりこむことの方が多かった。
完成品を、自分以外の誰に見てほしいわけでもなかった。
私は「生みだす」動作より、「完成品が見たかった」のでした。

ポンポンと何か創作物が出てきていた時は、精神に過負荷がかかっていた時でした。

隔月程度で小説が生みだせた数年間も、
毎週休みの日は1日2~3枚絵を描けた数年間も、
描かなくていいのに描かねばいけない。
描かねば私ではないと、なにかの強迫観念に駆られていました。
ずっとです。

もうそこまでのことはできない。あれは私にとって普通では無かったのかもしれない。
だけど、あの時はできてしまった。まるでそれが普通のことだったかのように。
できていた私の方が異常で、今の私が正常に近いのだとしたら、今の私はなにも描けない。

でもね、やっぱり私は何かを生み出したいんでしょうね!
なにか描けたら・書けたらいいなぁと思いながら日々を過ごしている。

しかしおそらく難しいでしょう、描く動機がないから。
文章と絵を描く能力があるのに、実行する気が起きない。
書きたいnoteの内容すらも、出てこない日の方が増えてきている。

アウトプットのしすぎで、アウトプットが枯渇している可能性もまたありますが、
精神的に大変な状態になりたいと、そう思っているのでしょうか?
精神的に大変な状態があまりに平常だったから、今がぬるく感じているのかもしれません。
精神的に大変な状態には、できればなりたくないなぁ。

動機がない状態のほうが望ましいとしたら、
いまは想像的インプットと現実的アウトプットだけをして
絵を描きたい、小説を書きたい、人間をえがきたいと思った時に、

「その事象がただ私はしたい ただ完成品を見たいのだ」と、
快を求めるようにそう思えた時に、えがけたらいいなぁと思います。
いまは、私が見たい「完成品」という名の動機がないんだなぁ。



とりあえず自分のご飯について考える方が楽しい。
ちょっとだけ創作がしたいと思いながら。

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