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推理小説の「条件発見力」が思考力を強化する

論理的思考能力なんか鍛えなくていい。
そんなことより、条件発見力がなければ、リュックの中はアイスクリームでべちょべちょになる。

密室トリックに教わる「条件発見力」

久しぶりに、森博嗣さんの推理小説を読んでいる。
代表作の「すべてがFになる」はマンガ化もされているし、綾野剛さん主演でドラマ化もされている。

登場人物も魅力的なのだが、謎を次々に解明していく犀川助教授の思考をトレースするのが何よりも好きだ。その犀川助教授は、劇中にこんなことを言っている。

犀川は、自分の授業でも試験は一切しない。問題を解くことがその人間の能力ではない。人間の本当の能力とは、問題を作ること。何が問題なのかを発見することだ。

森博嗣「冷たい密室と博士たち」

「何が問題なのかを発見すること」と言いながら、この犀川助教授は頻繁に殺人事件に出くわしている。
解くべき問題は明白だ、目の前で起きている殺人事件の犯人を見つけることに決まっている、と思われるかもしれない。しかし、そうではないのだ。この「問題を発見すること」の中には、「条件を明確に見つけること」が含まれている。
問題発見能力ならぬ、”条件”発見能力だ。
犀川助教授は、数学の問題でも解くように、殺人事件が起きた状況を観察して、前提条件、制約条件、境界条件を明確にしていく。条件を正しく見つけて、問題を定義すれば、解くのはたやすい。

彼の活躍するミステリー小説では、正しい条件を見つけることが肝になっている。
こんな話があった。ある小屋には出入り口は一つだけ。右開きのドアが付いていた。しかしその扉はコンクリートで地面に固定されていた。扉のノブを握って、引いても押してもびくともしない。誰もが、ここに密室という条件を与えた。
しかし、その条件には綻びがあったのだ。扉は確かに固定されていたが、小屋本体が地面に固定されていなかったから、小屋本体を動かして、出入りすることができたのだ。

これは、ミステリー小説に限った話ではない。実社会でも、僕らは条件を明確にしながら、問題を解いている。


明日の遠足のおやつ問題

たとえば、こんな問題の答えを考えてみるとしよう。

「明日の遠足にどんなお菓子を持っていくか」

この問題には、どんな条件が含まれているのか。
遠足のおやつというと、だいたい金額の条件がついている。「お菓子は一人300円(税抜)まで」といったように。
しかし、それ以外にも明示されていない条件がもっとたくさんある。
当然のことだが、食べたくないものを持っていきたくないから、「自分が食べたい物」という条件がある。
「300円までで、自分が食べたい物」であれば、お煎餅という答えが見つかるかもしれない。
だけど、明日のお弁当は大きなおにぎりだ。おにぎりを食べた後に、同じく米を原料としたおせんべいを食べたくなるとは思えない。
そう考えると、「おにぎりを食べた後に食べたい物」という条件にした方が良さそうだ。
じゃあ、お煎餅をやめて、295円で買えるハーゲンダッツのチョコレートアイスにしようか、というとこれも違う。食べる前に溶けてしまって、リュックの中が大惨事になる。
「常温で保存できるもの」という暗黙の条件が存在していることに気づく。

こうやって条件を見つけていくことで、答えは自然と見つかっていく。

だから、僕はゴールドマン時代にトレーディングデスクの学生採用面接で次のような問題を出していたのだ。


論理的思考よりずっと大切な能力

プレーヤーの前に閉じた3つのドアがあって、1つのドアの後ろには景品の新車が、2つのドアの後ろには、はずれを意味するヤギがいる。プレーヤーは新車のドアを当てると新車がもらえる。プレーヤーが1つのドアを選択した後、司会のモンティが残りのドアのうちヤギがいるドアを開けてヤギを見せる。
ここでプレーヤーは、最初に選んだドアを、残っている開けられていないドアに変更してもよいと言われる。
ここでプレーヤーはドアを変更すべきだろうか?

wikipedia「モンティ・ホール問題」

これはモンティホール問題と呼ばれる有名な問題で、この答えは「ドアを変更すべきだ」とされている。

面接に来た学生にこの問題を聞いたが、正しく答えられる人は3%もいなかった。
「この問題知っていますよ。ドアを変えた方がいいです」と答える学生も多くいたが、正解はそうではない。
正解は「条件による」だ。

もし、自分が司会者の立場で、プレーヤーに当てられたら、自腹で新車を買わないといけないとしたら、どうだろうか?
プレーヤーが「はずれ」を選んでいたら、さっさと答え合わせをして、「残念、はずれでしたー」と言うだろう。
逆にプレーヤーが「当たり」を選んでいたら、なんとかドアを変更させたいと思って、ゆさぶりをかけるために、他のドアを開けるかもしれない。

実は元の問題では、条件があいまいなのだ。
「司会者は残りのドアのうち、必ず一つを開ける」「司会者が開けるドアは必ず外れのドアだ」という条件のもとであれば、用意された答えのように「ドアを変更すべきだ」という答えになる。
しかし、条件が違えば、「ドアを変更すべきではない」が正解になる。

正解にたどり着くためには、条件が何なのかを見極めることが一番重要だ。
与えられた問題を解くだけでは、実社会では役に立たない。自分で条件を見つけないといけないのだ。
どんなに論理的思考能力があっても、条件を誤って解いていれば、遠足のリュックの中がアイスクリームでべちょべちょになってしまうからだ。

この「モンティ・ホール問題」は30年前に物議を呼んで、ドアを変更すべきだ、いや変更すべきじゃないと多くの学者を巻き込んで大論争になった。
もちろん、学者たちに論理的思考力が足りなかったはずがない。原因は、条件をはっきりしない問題を提示してしまったことにある。


財政問題をめぐる大論争

このモンティ・ホール問題のように大論争をして真っ向から対立しているような問題は、条件認識から考え直した方がいい。

財政問題の話も似たような構図になっている。
いわゆる従来の経済理論を掲げる経済学者が「政府の借金日本は財政破綻する」と主張しているのに対して、反緊縮派とよばれる人たちは「日本は自国建債務だから財政破綻しない」と論争している。

はたから見ていると、どっちが正しいかよくわからないが、これもまた条件認識によって答えが異なる話だ。

そんな中、1月28日に放送されたMXテレビの「東京ホンマもん教室」での藤井聡先生の説明は非常に興味深かった。

今までの経済理論では、中央銀行という経済主体が存在しなかった。
金本位制ではなくなった現代では、この中央銀行によってお金を増やしたり減らしたりできる。

だいたい、そんな内容だった。

条件が新たに加わったのだから、従来の経済理論と同じ答えである保証はない。こういった条件を一つ一つを吟味しながら、問題を再定義していけば、真っ向から対立することはなさそうだ。

藤井先生のように条件を論じる人たちが増えていけば答えは自ずと見つかるはずだし、僕自身もそういう形で議論に加わりたいと思っている。

こういった議論において、新たな条件を見つけるのは難しい。誰でもできることは、当然だと思っている条件から疑ってかかることだ。
犀川助教授が、コンクリートで固定された扉の密室を疑ったように。

何よりも疑わないといけないことがある。

それは、「自分の言っていることこそが正しい」という条件だ。

この条件を抱えていると、建設的な議論ができずに、ただの口論になってしまうと思うのだ。


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