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きっとどこかの路地裏にありそうなビストロ『キッチン常夜灯 真夜中のクロックムッシュ』 長月天音 著

小説を読んで実際におなかがすいてくる。食べたことのない、知らない料理のはずなのに、頭になんとなく料理が浮かんできて味まで想像できてしまう。映像でもなく、写真や絵で表現されているわけでもなく、文章だけでその料理を想像して、おいしそうだと感じ、おなかがすいてくる。こんな体験をしたことがあるだろうか。

それは、すごく想像力が必要そうで、なかなか高度な読書テクニックのような気もするけれど、素敵な食べ物小説からは、店内の香りや料理の味わいが感じられることもあるのだ。

読むだけでおなかがすいてくる、そしてなんだか主人公と一緒にそのお店にいるような気がして、現実社会との向き合い方もすこしだけ変わるような気持ちになれる小説をご紹介します。


『キッチン常夜灯 真夜中のクロックムッシュ』 長月天音 著


恋も仕事もうまくいかなくても――私が私と向き合う場所がここにある。

夜から次の日の朝まで開いているビストロ「キッチン常夜灯」。同期の南雲みもざに連れられて、34歳のつぐみは初めて店に足を踏み入れて以来、「今日は常夜灯に行く」ことを、仕事のモチベーションにしている。つぐみは、みもざが店長を務めるチェーン系レストランを経営する株式会社オオイヌ・本社営業部に所属している。「女性活躍」の目標のもと、女性が店長になった代わりに、ベテランの男性社員が本社勤務になった。そんな彼らに気を遣いながら、日々仕事に忙殺されているが、直接お客さんと接するわけではなく、やりがいを見出すことが難しい。結婚を意識する彼氏とも、最近ぎくしゃくしはじめている。仕事で疲弊する分、オフを充実させようとするものの、充実が何なのかが自分でもよく分からず、毎日不満とストレスだけが蓄積されていく。そんなある日、秋のデザートメニュー開発を頼まれてしまい……。

角川文庫HPより

2023年に刊行された『キッチン常夜灯』の続編となる物語。5月下旬に刊行されたため、書店の新刊棚に並んでいるかと思う。

▼『キッチン常夜灯』はこちらでご紹介しておりますので、よろしければ読んでみてください

続編ではあるが、主人公は別の女性だ。そして、主人公は別の女性ではあるが、舞台となる場所は同じだ。

街の路地裏で夜から朝にかけて営業している小さなビストロ「キッチン常夜灯」がこの物語の舞台である。主人公は、前作の主人公が店長を務めていた、洋食チェーンレストランを経営する会社の本社営業部で働く34歳の女性。

あまりにも無謀すぎるやり方で「女性活躍」という目標を強行している会社の本社営業部に、唯一の女性として配属されている主人公。仕事ができて周りが見えすぎるあまり、頑張りすぎて疲弊してしまっている。弱音を吐こうにも、彼氏との関係も上手くいっていない。

膨大な仕事量やクレーム対応のストレス、年上の男性社員たちとの関係にも問題を抱えていた。「女性活躍」を押し進めた結果、女性はとにかく活躍しなければいけない一方で、男性の居場所が突然奪われていたのだ。「店長」という現場の居場所を失った年上男性社員たちとの意識の違いや、コミュニケーションの取りずらさに日々もやもやとしていた。

ある夜、前作の主人公である同僚に連れられて、「キッチン常夜灯」を訪れる。疲弊してしまった体に、心のこもったシェフのあたたかな料理を入れることで、彼女はすこし元気を取り戻す。

疲れた夜は「キッチン常夜灯」に通うことで、仕事への向き合い方、現場である店舗と本社の関係性の捉え方、そして彼女自身の意識が変わっていく。

自分の仕事はしんどくて大変で、でもなんとかするために頑張っている。それは事実として、頑張っているのは自分だけではないことに気付く。自分のことばかりではなく、周りの人が抱える問題やそれぞれの立場における心情を想像し始めるのだ。

彼女の働く大手チェーンの企業と「キッチン常夜灯」はまるで違うお店だ。現代社会と、現代社会からは切り離されたような異空間。忙しない日常と「キッチン常夜灯」で過ごす夜を行き来するうちに変わっていく彼女。ふと、自分はどうだろうかと考える。

仕事においても私生活においても、自分のことばかりになっていないだろうか。周りの人の置かれている状況や心情を想像することはできているだろうかと考える。

かと言って、考え込んで暗くなるなんてことはないのだ。なぜなら、自分の味覚にぴったり合う料理を食べたときのような満たされた気持ちになれる、想像するだけでおいしそうな料理の数々と出会えるからだ。それがこの小説の魅力だと思う。

主人公は、とにかく仕事も恋も上手くいっていない。自分のキャパ以上の働きをしても、なんだかうまくいかないのだ。

もうすべてを投げ出さないと解放されないのではないかと思うほどの、人生どん詰まりの状況にいる。(前作の主人公にいたっては、家が火事の被害に遭い住む場所まで失っているというさらなる絶望的状況だった)

こんな状況にある主人公たちだけれど、「キッチン常夜灯」で出される料理の描写がとにかくおいしそうなこと、「キッチン常夜灯」のお店の雰囲気が優しくあたたかく主人公を包み込んでくれることで、読んでいるこちらとしても、そこまでの悲壮感を感じないのだ。

すべてを投げ出してもよさそうな状況にある主人公は、物語の最後にはどうなっているのか。恋も仕事もすべてを手放して新たな道を歩むのか、現状維持で変わらない毎日を生きるのか。そもそもそんな二択じゃ未来は決められないけれど、頑張り屋さんの彼女が、またさらに魅力を増して素敵な主人公へと変わっていく姿をぜひ楽しんでほしい


きっとどこかにありそうな「キッチン常夜灯」で過ごす夜


夜から朝まで営業しているビストロ。異空間ではあるが、ファンタジーではない。

きっとどこかの路地裏にひっそりとあるのかもしれないなと思えるほど、「キッチン常夜灯」で働く人たちや、「キッチン常夜灯」を夜の居場所にしているお客さんたちは、身近にいるような人たちだ。現実との地続きにありそうな物語だと思う。

毎日なかなか大変な現実社会で生きているから、読書をする時間くらいは悲しい気持ちや苦しい気持ちになりたくない。でも、ファンタジーで現実逃避したいわけでもない。そんなときに読んでほしい小説。

なんだか満たされなくて寂しい夜に、すこしだけ優しい世界に居場所をくれて、ほっとやすらげるひとときを過ごせる。現実との地続きにある物語だから、夜中に本当におなかがすいて困ってしまうのだけれど。


『キッチン常夜灯 真夜中のクロックムッシュ』

ぜひ書店で探してみてください。


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