将来の夢
小さい頃から、やたらと書かされた題材。
この歳になってチャレンジしてみようと思う。
幼稚園の頃、短冊で書いた夢は「犬になりたい」だった。
なぜなら、動物の中で一番かわいい存在だったし、あの姿で駆け回ってみたいと思ったから。
笹に吊るされた願いが燃やされて天に昇っていくとき、翌朝犬に変身できている自分を想像した。1ミリはたぶんなれないんだろうなと思っていた。
小学生の頃、作文で書いた夢は「ヴァイオリニストになりたい」だった。
3歳のとき、パペットたちがクラシックを演奏する教育番組があった。
そこで一際輝いて見えたのが、ヴァイオリンを演奏する金髪の女の子だった。
音色、キャラクターのビジュアル、楽器そのものの美しさ、プレイスタイル。
全てが完璧であり、隣にいた母にこれがやりたいと言っていたそうだ。
結局、8年ほど習わせてもらったのだが、才能の限界や音楽家を目指すうえでの環境など、リアルが見えていき夢想家から現実主義者へと変貌した。
2分の1成人式のとき、前に出て発表させられる作文たち。
この中で、一体どれだけの人数がこの願いを叶えられるんだろうと思った。
どうせ、大きくなったら黒いスーツに身を包んで、特別好きでもないところになんでもない顔して就職するのに。
どうしてわざわざ夢を見させるようなことをするのだろうと先生たちに思った。
それからの私は、将来の夢と問われると職業ではなく、どんな人間になりたいかというテーマで書くようになった。
大人になって見返したときに、叶えられていない自分に恥じないようにそうしたのだと思う。優しい人とか、自分の意見をもてる人とか、たぶんそんな感じ。
中学生の頃、そんな理想を語っていられないほど、どこにも居場所がなかった。
たすけてください。そう願って眠った夜は数えきれないほどにある。
もう死んでしまおう、自室の窓から飛び降りようとした頃から、私の人生は狂い始めたのかもしれないし、私自身の世界が開くきっかけだったのかもしれない。
ある一人の友人を通して、別世界へと逃げた。そこで出会った人たちと交流するにつれ、絶望に苛まれている人に手を差し伸べられる心理職へと興味が向くようになった。
高校生の頃、心理学に強い大学を調べ、そこに合格できるように勉強していた。
共感力の高い人間が選ぶには打ってつけの職だとも思ったし、反対にあまりにも神経をすり減らし、逆に適性がないんじゃないかとも考えた。
だが、肝心の受験に対する協力者が誰一人として存在しなかった。
私の進路に対して、一切の興味を示さない家族。
だからと言って、一人で頑張っていても何も後押しがない環境だった。
「模試を受けないから、(私)さんの現状の力がわかりません。」
担任は、母にそう言っていたらしい。
受けないのではなく、受けるお金がないんですよと思った。
でもそんなことを言いたくもないし、ただ惨めになるばかりであった。
年々、質素になっていき、父の口癖の「お金がない」は日常のあらゆる言動に滲み出てくるようになった。
あー。やっぱりね。期待なんかしちゃいけないんだ。
押し殺せ、押し殺せ、もういいや、人生なんて。
また悲壮感に押しつぶされ、引き篭もっている時、とある作家に出会った。
その人は、サングラスをかけていて、ある時は小説家、ある時はコピーライター、ある時は劇作家、ある時はタレント、ある時はパンクロッカー、ある時はアル中、ある時はヤク中、といったあらゆる肩書きを持っていた。
昔の映像をみると、コミカルでポソポソと喋っているのだが、文章には誰一人として貶めず、受け入れる優しさを持つ彼の人間性が現れており、惹かれると同時に救われたような気持ちになった。
いろいろ調べるにつれ、この人は大阪芸術大学の卒業生であった。
こういう人に出会えるかも、と何を思ったのか急に進路を変え、現在通っているという感じだ。
2024年1月 大学2年生が終わった。
進級できたら、3年生だ。自ずと頭に浮かんでくるのは就活のことばかり。
ほら、小さい頃に考えていた就活生とそっくりそのままの自分になりそうじゃないか。
何か行動できているわけでもなく、これだ! と思えることもなく、タラタラと生活が過ぎていった。
気になる業界もあって調べたり、心理学を学べる大学に入り直すことも考えた。
結局、どれも重い腰が上がらない。
何をやってんだろうか、と死んだ目でベッドに横たわっていると高校の友人からLINEが届いた。
「私の疑問をきいてくれー!!!」
彼女は、現在看護大学へ通う学生だ。
小さい頃からの将来の夢は医者だったらしい。
難病に侵され病院で過ごす期間が多かったことから、そこで関わった人達に救われ、ずっと心に持っていた夢だと聞いたことがある。
実際、私も近くで必死に勉強している彼女を見ていた。
誰よりも早く学校にきて自学をし、放課後はすぐさま予備校へと通っていた。
受験は、求められる答えを正確に書けるように勉強するが、彼女からはそれ以上に熱い何かを感じることが多かった。
◯◯教授の論文に感銘を受けて、そこのゼミに入りたい。とか細胞研究がなんちゃらかんちゃらとか、正直文系の私には理解が及ばなかったのだが、言葉の端々から溢れる熱意や、どこまでも努力できる姿勢を尊敬していたし、こういう人が受かってくれたらいいなぁと思っていた。
だが、共通テストを受ける際にミスを犯してしまい、1年浪人することが確定してしまった。
ミスがなければ、学力的に合格していたのだろうなと悔しくなったし、努力が報われないどころか、試合にすら立たせてもらえないこともあるのかと思って、なんとも歯痒い気持ちを当時は抱いていた。
大学生と浪人生ということから、お互い忙しく連絡がほぼない頃
「飛び降りてしまった」
突然のLINEにパニックになり、どういう状況だったかは覚えていない。
脳出血と骨折で入院することになり、その後、連絡手段もなくなってしまった。やっと再会ができたのは昨年の9月だった。
たくさんの話をしたが、印象に残っている会話は
「医者として働きたいと考えていたけど、看護師の方が患者さんの一番近くに寄り添って働けることに気づいた。」といった内容だ。
話を現在に戻そう。
彼女の疑問は、SNSでオーバドーズで入院しましたという投稿に対して、追い打ちをかけるように「はやく死ねば?」とか「こういう奴ムカつく」などといった言葉をかける人間ってなんなの? という内容だった。
「自分がそこまで落ちたことがないから想像できないんじゃないかなぁ」
と返すと、これまた嫌な現実が返ってきた。
どうやら、バイト先の病院の医者や看護師もそういう風に言っているらしい。
たしかに忙しいだろうし、そうやって処理しないといけないのかもしれないが、医療従事者がそんなことを言っているのか、と私は少しショックに思った。
「思ってたとしても言ったらあかんわな」
と返すと、ほぼ同時に同じ意見が彼女から送られてきた。
「私自身も辛い時期があったけど、未遂した人、ODした人じゃなくてちゃんと一人の人として看られる人になろうと思う。私だけでもいいからそういう温かみに触れてほしい」
「その後の人生には関われないけど、短期間でも温かみに触れた時間が生きる糧になってくれたらいいなと思う」
すべてを失った、と心の底から思ったことがある人から出る言葉だと思った。
いつだって素敵で、真面目で真っ直ぐで
この子の友人でいられて私は凄く幸せなのだ。
「たしかに、その記憶があれば生きていける気がする」
「でしょ?」
そうだ。いつだって心が動かされる時は、誰かが手を差し伸べてくれていた。
自分を見失っている時に、こんな会話ができたことで少し糸口が見つかった気がする。
結局のところ、誰かのちょっとした生きる糧をどういう形で与えたいかが、職業選びのヒントなのかも。
その後は雑談も混じりつつ、私の進路の話になった。
出版系、ラジオが好きだからそっち方面、公務員で児童心理士さんもいいなとかあやふやすぎるLINEを送った。自分の憧れと適性を合わせるのが難しいとも送った。
ただ一貫して言えることは
「どんな職業であれ、弱者に寄り添える人になりたい」
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