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アテネ五輪から止まっている時間

私にとって、オリンピックといえば2004年のアテネだ。北島康介選手が「チョー気持ちいい」という名言を残した、あの五輪だ。

当時まだ小学生だった私は週5で水泳を習っていた。平日は17時から練習だったため、友達と遊んでいても時間になったら1人だけ抜けて、早めの夕ご飯を食べてから近くのプールに通った。

水曜日だけは必ずお休みだったので、『天才テレビくんMAX』を見ていた。週に一度しか見られないため、ドラマ的なものはいつも話が飛び飛びで、話が分からなかった。でもそれでもよかったのだ。今日は休みだ、と子供ながらに満喫していたのだと思う。祝日に『ヒルナンデス』を家で見れるみたいな、そんなちょっとした非日常。

小学生の私にとって、家で夜ご飯を食べたら、水着を着て、その上から服を着て、プールに行くことが、紛れもない日常だった。たくさん大会にも出て、辛い合宿にも参加した。成績も残し、全国大会にも出れた。今でも当時一緒に泳いでいた友達とは仲良くやっている。

アテネ五輪は、父と一緒にテレビで見ていた。このまま水泳を続けていけば、いずれはオリンピックに出れるものだと何も疑わずに信じていた。だからアテネ五輪だけは一生忘れられないし、時が止まってしまったかのように時間が進まないのかもしれない。いつか私もインタビューを受けるんだと、奮い立っていた。そんな熱い思いを胸に秘めながら、オリンピックを見れることなんて、多分もう一生ない。私はそのとき紛れもなく、当事者だった。

だが小5のある大会の日、これ以上私は速くはなれないと気付いてしまった。その時点で割と身長も伸びていたし、これ以上どう頑張ったらあと1秒速く泳げるのか、皆目見当が付かなかった。みんながタイムをグイグイ伸ばしている時、私は完全に諦めた。

プールに行きたくないと駄々をこねても、親は小学校を卒業するまでは通い切りなさいとの一点張り。なんとか通い切ったが、9年間やり切ったという、ただその歴史だけが残った。だから中高6年間は完全にプールから離れて生活をした。それでも髪の毛は相変わらず塩素に色素を奪われたままだった。

大学進学を機に上京してから、私はまた水泳をする生活に戻ってしまった。プールでのバイトを始めたのだ。夏は夏季限定の屋外プールで、それ以外の季節は市民プールで、監視や指導補佐みたいなことをやっていた。水泳を通じて、見知らぬ地でたくさんの人に出会えたし、本気で取り組んでる人にも出会えた。「スタイルワンは何?ベスト何秒?」って話し出せば、会話は続く。きっとこれは水泳をやっている(た)人たちの世界共通文句だし、その人がどれくらい凄いかを出会って数秒で察知できるのはあの9年間の水泳経験のおかげだと思う。

結局私はプールの塩素の匂いが忘れられなかったのだ。物心ついた時から、夕方はいつもプールの中にいた。泳ぎ出したら一瞬で世界は静かになった。キラキラしていて、透明で、何があっても受け入れてくれる。いつだって自由になれた。泣きながら泳いでたって、ゴーグルしてるし、水の中だし、決してバレることはない。陸の上の私と、水の中のわたしは、多分違うのだ。

オリンピックが東京で開催されることが決まり、やっと2004年から時が進められると思っていたのだが、なかなか思った通りには進んではくれない。

だけど、あの夏も北島康介選手のインタビューを忘れることもない。止まった時を無理やり進めようとしようとはせず、別のところで積み重ねていけたらいいなと、ふと思った。止まったままでもいいじゃないか。

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