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「終わりの町で鬼と踊れ」2話

潮風に船は錆び

 俺は息を切らしながら、長浜の漁港に辿り着いた。
 まいた気はするが、地響きのようなエンジンの音がまだ聞こえている。油断はできない。
 遮るもののない海の近くは、吸血鬼の心配は減るが、人間には関係ない。

 海には漁船がたくさん浮いている。
 ここに浮かぶ船も、ひっくり返った船も、放置されてそろそろ二十年くらい。とんがった船首を並べているどれも、塗装は剥がれ、潮風に錆ついて、ぼろぼろだった。

 イカ釣り漁船の、ずらりとぶらさげられたランプの半分くらいが割れている。
 雨風にさらされて濁っているものの、西に傾き始めた太陽の光をかえして、キラキラと光りながら揺れていた。
 青々とした海と、車の通らない高速道路を背景に。

 海に逃げた人もたくさんいたと言う。
 周遊遊覧船も、いまだに人を乗せたまま近海をうろうろしていて、たまに食料を求めて博多港にやってくる。

 俺は漁港近くの歩道のガードパイプに駆け寄った。
 ここに、改造してソーラー発電を装着した電動アシスト自転車を、チェーンでぐるぐる巻きにして固定してあった。

 前かごにはソーラー電池が突き立っているが、その後ろに、朝つっこんでおいたエコバッグがちゃんとあるのを確認する。
 天神へ向かう前、近くの総合病院や調剤薬局で手に入れた薬剤だ。
 念のために一度戻って、ここに隠しておいて正解だった。持ったままだったら、あの騒ぎで落としたり壊したりした可能性が高い。

「おい」
 ほっとしたのもつかの間、唐突な声に振り返ると、パドルを持ったさっきの少女が立っていた。
 ぎょっとして叫ぶ。

「なんだお前は。どういうつもりだ!」
 爆音と煙に気を取られて気づかなかった。

 追ってきたのか。
 俺は慌てて、腰の後ろの鞘から包丁を逆手に抜いた。

 フードに隠れたままで、少女の顔は見えない。
 だけど俺の反応に驚いたようで、害意がないのを示すように、パドルを持っていない手を広げて見せた。

「なんとなくだよ。人が逃げ出すと、つい自分も逃げないといけない気がして」
 追ってきたのではなくて、ついてきてしまったのだと主張する。
 人が慌てるとつられるのは何となくわかるが、なんでここまで一緒に来る必要がある。

「だからってついてくる必要あるか」
「だから、なんとなくだ。どこに行けばいいか分からないし、行き先もないから」
 威嚇する俺に、赤いフードの少女は、間の抜けた返答をした。

 街には掠奪者だらけだ。
 吸血鬼、炭鉱の奴ら、そしてこういう、害意のなさそうな奴。

 油断させて俺の戦利品を奪う気か。自転車に近づく前に気づくんだった。走って逃げるべきか、倒すべきか。

 俺が迷ったのは、一瞬だった。また爆音が聞こえてきた。

 しまった。追ってきたのか、偶然か。もうどうでもいい。

 俺は少女を気にしながらも包丁を仕舞い、自転車のチェーンをはずしにかかった。
 こんなに頑丈にするんじゃなかった。焦っているうちに音が近くなってくる。

 自転車をあきらめて、どこかに隠れるか。
 迷って顔をあげたところで、すぐそこのカーブを曲がって、黒煙と共に大型バイクが現れた。
 ちくしょう、間に合わない。

 二人乗りの煤けた男たちが、俺たちを見つけて咆哮をあげる。
 後ろの奴が、拳銃を向けてきた。
 俺はガードパイプを飛び越えて歩道にあがり、一目散に走り出した。くそ、体のあちこちが痛い。

 銃声が響いた。近くの地面に弾がめりこむ。

 俺が路地を曲がったところで、後ろから悲鳴が聞こえた。
 バイクの後ろに乗っていた男が地面に転がっている。片腕がおかしな方向に曲がっていた。その目の前に、パドルを構えた赤いフードが立っている。

 バイクを運転していた男が、俺を追うのをやめて、ハンドルを切った。

 普段なら少女を餌にしてこのまま逃げるところだ。
 だけど俺は踵を返してバイクを追った。自分の自転車のところに駆け戻る。

 最後のひとまき、チェーンを外す。振り回して勢いをつけてから、バイクの後輪に向けて投げつけた。

 ギャリギャリと大きな音をたてて、チェーンがタイヤに巻きつく。
 後輪が跳ね上がって、乗っていた男ともども宙を舞った。数メートル離れた場所に頭から落下して、その上にバイクが落っこちて、男は動かなくなった。

「てめえええ!」
 腕をへし折られた男が叫んで、俺に拳銃を向けた。俺は何を考えるよりも前に、地面に伏せた。

 銃声。顔を上げると、俺の前に、赤いフードの少女が立っている。腰を入れて両手でパドルを構えると、男の頭を思い切り殴りつけた。

 バイクが黒煙を上げている。石炭の臭いがあたりに充満している。
 こんなところにいると、あっという間にヤクザや吸血鬼に嗅ぎつけられそうだ。

 俺は、少女が叩き潰した男の手から、オートマチック拳銃を拾いあげる。撃ったばかりの銃口からは煙が出ていた。
 そのまま少女に振り向く。銃口は下をむけたまま。だが、いつでも撃てる。

「お前、どういうつもりだ」
「だから、たまたまだ」
 少女は、変わらず淡々と言う。俺の持つ拳銃を気にもしていない。

 俺は、口が曲がってくるのが自分でも判った。
 少女は、赤いチェックのポンチョの上から脇腹を抑えている。その手が赤い。

「撃たれたのか?」
「問題ない」
「血が出てるだろ」
「あたしの血じゃない、あいつの血だ」

 嘘くさい。俺はあからさまな疑いの目で少女を見た。
 赤いチェックのフードの下の、赤縁の眼鏡の奥で、意志の強い瞳が睨み返してくる。まさか、さっき俺をかばったのか。

「お前を助けようと思ったわけじゃない。たまたまだ。放っておけ」
 ――ああ、ああ、そうだろうな。滲むように湧いた罪悪感を読まれたような気になって、俺はイラだった。

 知らない奴だ。どうでもいい。
 あっちにとってもどうでもいいはずだ。バカバカしい。
 知りもしない奴を助けようだなんて、そんな奴がこんな時代にいるもんか。助けたわけじゃないって、あいつも言ってる。

 俺は、少女を見ていると、ますます口が曲がってくるのが自分でも判った。
 ――ああ、だけど、こいつがなんて言おうと、助けられた。それは事実だ。天神の時と、今。二度もだ。

「くそっ」
 俺は自転車のカゴからエコバッグを取り出してベルトに結びつけると、かわりに拳銃をカゴに放り込んだ。
 薬莢も拾いたかったが、すぐ見つからない。探してる時間はない。

 それから、首にかけていたタオルをとると、少女にさしだした。
「これで押さえてろ。血の跡残すな」
 少女は反射のように手を出して受け取ってから、無言のまま、問うような目で俺を見た。

「乗れ」
 俺はソーラー自転車にまたがる。完全に日が沈む前に、身を隠して眠る場所を確保しないと。
「後ろに乗れ、とにかくここから移動して手当てしないと」

 腰のベルトに捕まる手を感じながら、自転車を懸命にこぐ。ソーラーパネルが力を発揮している間に少しでも遠くに行きたい。

 漁港を離れて、本来なら大通りに戻って、道の真ん中を走る。だけど今そっちに出れば、炭鉱の奴らに見つかるかもしれない。
 海側の都市高速の高架下や倉庫街付近、その近くのマンション群の前は本来なら通りたくないところだが、あえてそっちを選んだ。そこに潜んでるかもしれない奴らに見つかってないのを祈りながら。

 交差点を抜け、橋を渡る。すぐそこが海だ。
 太陽はいつの間にか、西で真っ赤に燃えて、海を染め上げている。

 ドーム球場と巨大なショッピングセンター近くの、大きな家を目指した。
 この辺りの家は一軒一軒が大きくて、物を隠すのには向いている。塀で囲まれて、庭が広いからだ。

 少女を下ろして、無人の家の車庫に自転車を停めた。
 チェーンを駄目にしてしまったので、車庫にあった別のチェーンをあさって固定する。
 それから俺は、二軒先の別の家に向かった。どこにいるか嗅ぎつけられないように、カモフラージュだった。

 門を開けて、玄関の引き戸を開ける。
 足を踏み入れようとして、何か光った気がした。嫌な予感と、首に何か当たる感覚に、慌てて止まった。

 後ずさる。目の前に、ぴんと張った糸のようなものが見える。
 ピアノ線だ。ブービートラップか。

「――あいつ」
 駆けこんだら死ぬところだった。

 思わずうなったのと、後ろでガツンと音がしたのは同時だった。
 野球のバットを振り下ろした少年と、そのバットを片手で受け止めた少女が、俺の視界の中でかたまっていた。

「……おい」
 あきれて声を出した俺を、少年の目がぎょろりと動いて見る。
「なんだ、榛真はるまか」

 へらっと表情が崩れた。
 その顔を見て、あきれが少し苛立ちに変わる。こいつの用心深さは相変わらずだし、それを責めることもできないが。

亨悟きょうご、お前、俺を殺す気か」
「榛真くんなら大丈夫だって信じてるよ。これくらいの罠当たり前だし」
「家入る前に教えろよ」
「知らねー奴連れてるからだろ」
 へらへらと笑っていたのが一変、またぎょろりと目が動いて、バットを握ったままの少女を睨みつけた。

「こいつなんなんだ? この辺の奴じゃないな? 女連れかよ、生意気な」
 フードをかぶったままの少女の顔を覗き込むようにして言う。

 警戒警戒警戒。亨悟の顔に書いてある。
 ぐいぐいと少女とバットの取り合いをしていたが、少女がパッと離したせいで、亨悟はよろけた。

「怪我してるから連れてきた」
 俺の言葉に、ふうん、と不満そうに言う。そして改めて俺を見て、笑いだした。

「お前背中に何生やしてんだよ」
 リュックから、ボウガンの矢が突き出ている。笑いごとではない。

 俺は溜息をついて、ドアから一歩引いた。亨悟に先に行くように促す。
 奴の後ろで、どんどん日が傾いていく。完全に暗くなる前に姿を隠して、腹ごしらえをしておかないと。

「いいから、中入れろよ。他に罠はってないよな?」
「窓に気をつければ問題ないね」
 ピアノ線をくぐって、亨悟は玄関に踏み込んだ。靴のまま家にあがって、勝手知ったる廊下を歩く。

 大きな家の中は、がらんとしている。
 玄関の近く、庭に面した一階の和室に入った。袋小路になっていない部屋が一番いい。

「おい、お前傷見せてみろ」
 後ろをついてきた少女に言うと、眼鏡の奥の目が俺をにらみつけた。
「怪我なんかしてない」
「どう見たってしてるだろ。意地張ってる場合か」

 赤いポンチョを掴む。同時に、ものすごい勢いで手を振り払われた。

「触るな」
 叩かれた手首が折れるかと思った。
 ただでさえ吸血鬼の女に折られかけたのに。思わぬ過剰な反撃に、俺は手首を抑えて少女を睨んだ。

 手当てしてやろうと思ったのに、この仕打ちは何だ。無言の抗議に、負けじと強い視線が返ってくる。

「いいから、触るな。なんともない。これは返り血だって言っただろ」
 ひとことひとこと、ゆっくりと言い聞かせるような言葉に、亨悟が愉快そうに笑った。

「強引に服をはぎとろうとする奴がいるかよ、馬鹿め」
 亨悟のからかうような言葉に、むかっとするのと同時、顔が熱くなるのがわかった。

「誰が、強引になんて」
「たった今この目で見ましたー。榛真くんがー女の子にー」
「うるさい。もういい! ……あんたも勝手にしろ、死んでも知らないからな」

 亨悟と少女に言い放ち、俺は部屋の隅にリュックを下ろした。
 中を見てみると、リュックに刺さっていたボウガンの矢は、サランラップの芯を貫通して、鯖の缶詰の蓋を突き刺して止まっていた。
 缶詰に穴は開いているが、中の汁はあまりこぼれていない。横から亨悟が覗き込んできて、大袈裟な声を出した。

「あーもったいないなあ。これの味噌味おいしいのに」
「俺の心配しろよ」
「お前みたいな無謀な奴、心配してもしょーがねーや」
 俺は矢を引き抜いて、矢じりについた味噌の出汁をその辺の布で拭きとってから、リュックに放り込んだ。

「お前卵持ってるだろ。飯にしようぜ」
 穴のあいた缶詰を差し出すと、亨悟は顔を輝かせて頷いた。

 夜は吸血鬼の時間だ。
 天神の奴らはともかくとして、たいていの吸血鬼は昼に眠って、夜に食料を探す。だから俺たちは夜が来る前に腹ごしらえをして、身を隠しておかないといけない。

 吸血鬼たちと同じように、日中眠って、見張っていられるように夜起きている人もいる。
 だけど、俺たちは吸血鬼みたいに夜目がきかない。灯りをつけられなきゃ何もできないし、物音も立てられないんじゃやっぱり何もできない。

 俺は、なるべく音をたてないように、ピアノ線にやられないように気をつけながら雨戸をしめた。
 途端に夕日のさしていた部屋が薄暗くなる。

 亨悟はキッチンの戸棚に隠してあった卵とカセットコンロを取り出した。
 亨悟は、この近くの家の庭で、ニワトリを数羽飼っている。朝採った新鮮な卵のはずだ。

 キッチンの床にカセットコンロを置いて、缶詰を温め出した。暗くなった家の中で、コンロの火が浮き上がる。

「お前この缶詰どうしたんだよ」
「取ってきたんだよ。天神で」
「天神に行ってたのか。ほんと馬鹿だなあ」
 天神、博多駅周辺、かつて栄えた街で人間は支配権を失っている。
 だけど同時に、人間が荒しそこねたままの場所でもある。まだ物資が残っている。

「天神で炭鉱の奴らに追いかけられた」
 ああ、それで矢が生えてたのか、と亨悟は笑う。
「最近ご無沙汰だったが、また来たか。炭鉱ヤクザちゃんと捲いてきたのか?」

 のんきな奴だ。
「一応な。うるせえ炭鉱車の音も聞こえねーだろ。それよりもっと俺の無事を喜べ」
 長浜でも見かけたのは気になる。まだ天神近郊をうろついているのならいいが、こっちのほうまで来たら厄介だ。

 だから用心のために、今日は自宅に戻らず、この隠れ家に寄った。よそ者が一緒だったのもあるが。

「もしかしたら博多の方に行ったかもしれないし、変に大騒ぎして刺激しなきゃあ、アイランドシティとか、志賀島しかのしまの方に行ってくれるかも」
 地下は吸血鬼たちの棲み家で、奴らは地下鉄の廃線を移動に使う。

 地下鉄は微妙に環状になっていなくて、途切れた区間がある。この区間のお陰で、奴らの西方面や、郊外の支配は不完全な状態だ。
 多くの人間はそういった場所の、人が多く住めるような施設で、肩を寄せ合って、群れになって暮らしている。

 この近隣の大きなところでは、埋め立てて造られた人工の島アイランドシティ。
 そこと志賀島は、陸地とつながっていた道路を破壊して、簡単に渡れなくしてあるらしい。

 西の糸島や農業をやっていた地域は今も機能している。俺たちよりもよほどマシな生活をしてて、たまにそこの食料と街で拾ってきた物資を交換してもらう。

 それから太宰府天満宮と国立博物館跡。吸血鬼を退けられると思って、宗教施設に駆けこんだ人たちがいる場所だ。

 他には北九州の八幡製鉄所あたりの工業地帯。そして今日俺を襲ってきた奴らのいる、筑豊の炭鉱。

 ガソリンが手に入らなくなって、人間はまた炭鉱に目をつけた。
 炭鉱は日の光が入らないこともあって、奴らと激闘があったというが、採掘している石炭は重要なエネルギーだった。

 そして、俺の生まれた能古島のこのしま

「他の人に、警告に行かないと」
「お前は律儀だなあ。まあ、七穂ななほちゃんもいるし」
 亨悟は笑いながら、缶詰に卵を落とした。音を立てて、味噌と卵の混じる匂いが広がる。

「……お前、気をつけろよな」
 脳天気な亨悟に、しぶしぶ言うと、奴はまた笑った。
「お前はほんと、いい奴だよ」
「うるせえ」
 俺は思いきり顔をしかめた。

 亨悟はもともと、この界隈の奴じゃない。何年か前にもやってきた炭鉱ヤクザの一人だった。

 仲間とはぐれて吸血鬼に襲われていたのを、俺が助けてやったのだ。
 別に知り合いでも何でも無い奴が死んだってどうだって良かったが、なんで助けてやったのかなんて、決まっている。
 吸血鬼を排除したそのついでだった。

 仲間を呼ばれるかと思って警戒していたが、その気配はなく、炭鉱ヤクザ達は去って行った。

 怪我をしていたのを放っておいて、別の吸血鬼の餌になるのは、なんだか不本意だったから、隠れ家をひとつやった。その後はもう関わらずにいたのだが、市内をうろうろしているときに不意に再会した。

 こいつはそのまま、ああやって騒ぐのも群れるの苦手なんだよと言って、そのままこの土地に居座ったのだった。

 ――自分のために生きてるって最高だよな。
 そう言ってへらへらと笑った。
 のんきだが、神経質な奴だ。
 常に一人で気を張らないといけない今みたいな状況だって、こいつにとっては気楽なんだろう。

 なんだかんだとウマがあって、いつの間にかツルむようになった。
 同世代の、別の土地の奴なんて物珍しさがあった。多分、お互いに。
 そのくせ俺たちは「群れが苦手」というところで、すごく気があったのだった。

 竹の箸で缶詰の中身をぐるぐるとかき混ぜてから、亨悟は俺に顎でしゃくった。
 俺は引き出しからステンレスのスプーンを持ってくると、軍手でアツアツの鯖缶を掴んで、少女のいる部屋に戻る。

「あんたも食えよ」
「……紗奈さな。名前」
 部屋に立ちつくしたままだった少女は、ぽつりと言った。赤いフードを脱いで。

「いらない」
「……あのなあ」
「ほんとうに、いらない。悪く受け取らないでくれ。食欲がない」

 あんだけ動き回って食欲がないとは。
 意地を張ってるのでなければ、この暑さでやられたのか。

「二度はすすめないからな」
 食料は貴重だ。いらない奴にやるものはない。

「気持ちだけもらっとく」
 愁傷なことを言って、紗奈と名乗った少女は、部屋の隅に腰をおろした。
 膝を抱えて、大きく息をつく。手当てもしない、飯も食わない、なんでついてきたんだ。――なんで、俺は連れてきたんだ。

 俺は自分の荷物のそばに座ると、卵とじにした鯖缶の鯖をスプーンですくった。
 ほどよく味噌の焦げた香ばしい匂いを吸いこんでから、ひといきに口に放り込んだ。

 熱い。ほくほくでうまい。
 とろとろの卵に、味のしみ込んだ鯖の柔らかい身を、ゆっくりと噛んだ。
 味の濃いものはなかなか食べられないから、じっくり味わう。

 亨悟は、菜種油をフライパンに敷くと、その上に卵をふたつ落とした。

「……いたのか?」
 卵に海塩をふりかけながら、亨悟はさらりと言った。何でもないことのように言おうとしているのが分かった。

「見てない」
 はふはふと息を吐きながら、俺もさらりと返した。亨悟は顔を上げずに言う。

「ほとんど無傷みたいだし、そうだろうと思ったけど。良かったのか残念なのかだな」
「でも、見覚えのあるチェック柄を着てる奴は見た」

 亨悟が、カセットコンロの火を消した。
 途端に、家の中が薄暗くなる。亨悟はフライパンの半熟目玉焼きを持って部屋に戻ってくる。
 真ん中に腰を下ろしたので、俺は鯖缶の残りを奴の膝元に置いてやった。

「あたしが殺した奴か?」
 薄暗い部屋の中、紗奈が唐突に口を開いた。今までろくに話をしようともしなかったくせに。

「そう。お前が殺ったあの女、ブランド物のトレンチコート着てた」
「よくある柄だろ?」
 だから? という声だった。眼鏡が俺の方を向いた。

「似たようなものはよくあるが、あれは高級ブランド物のチェック柄だ」
「それがどうした」
「集団になればトップが出来る。奴らでも同じだ。いいものを着てるのは、立場が強い証だ」
「それでブランド服か」

 表情はよく見えないが、鼻で笑うような声だった。こんな世界で、ブランド物がなんだって言うんだ、と。

「馬鹿だな、いいものは丈夫なんだよ。雨にも強いし、トレンチコートは元々軍用だったんだってよ」
「変なこと知ってるな」

 前にいたブランド物好きのおばさん……もといお姉さんが言っていた。彼女はもう死んだけど。
 ふうん、と彼女は不服そうに言う。

「弱かったけどな」
「不意打ちだったからだろ」
 だが、そんなことよりも。

「俺の嫌いな奴が、よく着てる柄だ」
 目玉焼きをたいらげた亨悟が、俺にフライパンを渡してくる。物言いたげだが、何も言わない。

 俺は、塩味の効いた目玉焼きを、黙って口に放り込んだ。熱い。口の中が焼けるようだ。
 ――しょっぱい。
 涙の味だ。

「起きろ!」
 怒鳴りつけられて、俺は飛び起きた。

 部屋の雨戸は開け放たれて、朝日と爽やかな風が入り込んでいる。コケコケとニワトリの声が聞こえる。
 庭先に立った亨悟が、ものすごい形相で俺を見ている。

 しまった、亨悟が起きて外に出たのも気づかなかったなんて。
 いくら昨日動き回ったからって、熟睡しすぎた。

「ニワトリが一羽いなくなってる」
 怒りを抑えた亨悟の言葉に、逃げたんだろ、とは返さなかった。

 軽い考えが命を奪う。
 『奴ら』は人間の血を求めるけど、たまに動物の血肉も食らう。ただし、人間の血を長く口にしないと体が衰えてくるらしいから、結局人間も襲うんだけど。

 奴らに噛まれたニワトリは、俺たちは食うこともできない。かわいそうに。

 いなくなっているのだとしたら、逃げたか、俺たち以外の人間に盗られたか、吸血鬼に殺されたかだ。
 ただ、一羽っきりと言うのは気になる。

「おい、榛真。あの女はどうした」
 少女がうずくまっていた部屋の隅を見るが、もぬけの殻だ。
 俺の目線と焦った表情に、亨悟はまた大声を上げた。

「ちゃんと見張っとけよ」
「お前が出てった時はいたのかよ」
 亨悟は口をつぐんだ。やっぱりちゃんと確認しなかったんじゃないか。
 亨悟はむくれた顔で、八つ当たりのように言った。

「あの女、吸血鬼じゃないだろうな。お前を油断させてついてきたんじゃないだろうな」
 少女は、吸血鬼を殺しまくっていた。この土地の事情を知らないよそ者だ。
 だからって、吸血鬼じゃない保障にはならない。知らないフリかもしれない。

 それに奴らだって、フードをかぶって、日を避ければ、昼間も少しは動ける。
 そう言えば家に入るまで、ストールポンチョのフードをかぶったままだった。

「お前、噛まれてないだろうな」
「はあ?」
 どこにも傷なんかないし、痛くもない。何より、噛まれればさすがに気がつく。それに。

「噛まれたらとっくに死んでるよ」
「だから聞いてんだろ、噛まれて死んでないんだったら、傷なんかとっくに治ってるし吸血鬼になってる!」
 亨悟が怒鳴る。

 吸血鬼に噛まれれると、大抵は死ぬ。
 だがたまに、同じように体質が変わる場合がある。ごくごく、たまに。

 そして奴らは、驚異的な回復力を持っている。まるで、人間の命の源を奪って、自分の活力にしているみたいだ。
 亨悟の言い分は正しいけど、ムッとして俺は言い返した。

「お前こそどうなんだよ」
「ほんと馬鹿だな榛真。俺が立ってるのはどこだよ!」
 庭。太陽の下。日光をさんさんと浴びて立っている。頭にかぶりものもしてない。吸血鬼なら死んでる。

 確かに、馬鹿だった。同時に、俺は急に不安になった。
 そんなわけない。だが気づいていないうちに噛まれてて、もし吸血鬼になってたら?

 ブルゾンのフードを被らないまま、ピアノ線を避けて、恐る恐る太陽の下に出た。
 カンカン照りの太陽は、肌を焼くほど強い。だけど、それだけだった。

 内心、ほっとした。
 途端に、昨日打ち付けた肩や腕が痛みを訴えてくる。こんなんで吸血鬼なわけがないのに。
 亨悟のせいで焦って、麻痺してた。

 亨悟を見る。目があうと奴は、詰めていた息を一気に吐いて、破顔した。俺に抱きついてくる。

「もーびっくりさせんなよ、良かった良かった」
 ぽんぽんと背中を叩いてくる。
「痛い! お前が勝手にびびったんだろうが、ほんといい加減な奴だな!」

 ホッとした反動で、俺は悪態をつく。むかつくけど、その用心深さを責めることは出来ない。

「いやーだから、わるいってー。お前がやられるなんてないって分かってるよー」
 調子のいい奴だ。亨悟はへらへら笑いながら、家の中に入った。

「盗られたものはないか?」
 最低限のものは、何かあった時にすぐ逃げ出せるようにいつも身近に置いている。
 俺のリュックは枕がわりにしていたし、手元に置いていたエコバッグもなくなっていない。戸棚の奥や床下に隠していた食料も無事。

 貸してやった毛布一つ持って行かなかった。
 ただ、俺が渡したタオルだけがない。

「何も盗られてないな」
 亨悟は不思議そうに言う。吸血鬼でないのなら、食料の一つ二つ、盗っていったっておかしくない。

「なんなんだ、あいつ」
 俺は思わず漏らしていた。亨悟はそんな俺を珍しそうに見た。
「ニワトリはあいつの仕業かな?」
「知るかよ」
 俺は一気に不機嫌になって、吐き捨てる。

 だけど亨悟はそんなこと少しも気にしていないようだった。ほんとにマイペースな奴だ。
 ピアノ線に気をつけながら縁側に踏み込み、家に上がり込むと、てきぱきと動き出した。

「用心のためにこの家は廃棄する。とりあえず急いで食料だけ移動させる。しばらく近寄るな。ほかのものは様子見て移動させようぜ」
 言いながら、亨悟はさっさと自分のボストンバッグに戸棚の食料やカセットボンベを詰め込みだした。

「お前は他の人に警告に行くんだったよな?」
 他の人、というのが誰なのか、亨悟は聞かなかった。

 ――いくら気があったって、俺の生まれた島のことは、こいつには教えていない。

 吸血鬼から助けてやって、怪我の手当をしてやって、隠れ家を共有したり、情報を交換したりはしているが、肝心要のところは線を引いている。
 こいつがスパイでない保障なんてどこにもない。だからこいつに教えてない隠れ家だってたくさんある。
 こいつだってここに住んで数年、同じはずだった。

 家族の話をしたって、過去にあったことや、自分の目的を話したって、守るべき場所のことは必要以上には教えない。
 そんなことはこいつも分かっているから、聞かない。

 俺はため息をつくと、同じように庭から暗い家の中に入った。

「炭鉱の奴らのこと知らせないと。お前どうするんだ? 見つかったらヤバイんだろ」
 俺はリュックに、昨日持ち帰ったエコバッグや荷物を詰め込む。ボウガンの矢も入れたままだ。何かの役に立つ。

 それから、食料を詰めた床下収納の扉の上にマットをかぶせる。とりあえず持てない分は隠すだけにする。

「ニワトリたちを別の隠れ家に動かしてから、城南区か南区にでも逃げる」
「気をつけろよ」
 ああ、と亨悟は飄々と応える。

 荷造りを終えると、俺が自転車を停めていた家の車庫までついてくる。俺が自転車を取り出すのを見ながら、亨悟はつぶやいた。
「夏ミカンとハチミツ。持ってきてくれよ」
 俺は苦笑する。

「夏ミカンはもう季節はずれだ。もうすぐ芋がくえるぞ。七穂ななほがコーヒーいれてくれるから、持ってきてやる。生きてたらな」
「生きてたらな」

じゃあな、と手を振ってから、亨悟はニワトリを回収しに近くの家の庭に向かった。



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