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切ってつながる



4月1日に30回目の誕生日を迎えた。

子どもの頃思い描いていた「大人になった自分」のイメージは何故か20代までで、子どもの頃の私は自分が30歳を迎える日が来るなんて想像さえできなかった。一桁数字が階段を登るだけというささやかな変化なのに、どうしようもない焦燥感に駆られてしまうのは不思議である。「大人」というステージに無理やり立たされて「もう大人なんだから言い訳はするなよ」と後ろから銃口を突きつけられている気分だ。正直言って成人してからこれだけの時間が経ったというのに、大人がなんなのかもわからないままでかなり困っていた。

20代の風呂敷を畳んでまいりましょうかねえと思い立ったのは2年と少し前。ちょうどエッセイを書き始めたあたりだ。文章の練習をする!と熱い鼻息を吹き鳴らしながら始めたは良いものの、何の勉強もせずに思いのまますっぽんぽんで大暴れするような文章ばかり書いていた。すぐに飽きると思っていたが、よい読者さんに恵まれたおかげで、こうして今も朝ごはんを食べた後の椅子の上でうんこ座りをしながらスマホに指を走らせている。

書きたい時に書く。
私がなによりも喜びを感じる瞬間が、この「自由さ」だ。自分の手綱を自分で握っていると感じられた時に、全身の血がカッと熱くなるのが分かる。自由である喜びが興奮に変わっているのだ。この時の私は疲れも空腹も感じず、どこまでも走っていけそうなパワーだけが全身に漲る。マリオのスター状態もきっとこんな感じなのだろう。ノコノコもクリボーもクッパでさえも、虹色の輝きを放ちながら疾走する私を止めることはできない。
「走りたい」と思った瞬間に自分の意思で土を蹴り上げることができる。それが最高に気持ちがいいし、「書きたい」と思った瞬間に書いた文章は、たとえ荒削りだとしてもなかなか素直でいい奴なのだ。

経過した時間が可視化されるのは良いなと思って、髪を伸ばし始めた。そしていい節目だから、と30歳になった日に切ろうと、自分で決めた。それが2年前だ。一度もカットしなかったら30歳になる頃にはかなりの長さになっているだろうから、切った髪はヘアドネーションすることにした。いつかはお返しするものだから、あるうちに出来ることをやりたい。そしてどうせするならきれいな髪を寄付できるようにしたい。全部思いつきで、ただ『やりたい』と思ったから実行することにした。
ちょうど2年前、初めてもらったnoteのサポート費の使い道に悩んでいたのだが、伸ばすと決めた日からサポート費の一部は髪のケア用品代に充てた。トリートメント、オイル、ヘアブラシ、ドライヤー、ありがたいことに必要な時に必要なものが買えるくらいのご支援を継続的にいただいた。


私が甲斐甲斐しく髪にオイルを塗り、汗をかきながらドライヤーと格闘している姿を見たオットが

「大変そうやな、切ればいいのに」

と苦言を呈してきた。オットにヘアドネーションの意志を伝えると、

「エムコがするんなら、俺もしよ」

とサラリと返してきたのにはギョッとした。オットの毛髪は天然パーマで、私の3倍は毛量があり、伸ばすとなると常人以上の手間がかかることは想像に難くなかった。すぐに音を上げるだろうと思ったが、毎日せっせと根気強くケアし、職場の人の嫌味も意に介さず、伸びた毛をくるくるとおだんごにまとめて出勤し、私と同じ2年を完走したので驚いた。

2年と少しの時を経て、オットの髪は胸上の長さに。私の髪の先は臍をこそこそとくすぐる長さになった。

4月1日。私が短大生の頃からお世話になっている美容院に夫婦で足を運び、断髪式をした。美容師さんが「ご自分で切ってみます?」と提案してくれたので、ゴムで結んだ毛束に自分でハサミをいれることにした。髪は女の命とはよく言ったもので、いざ切ると心に決めた時でさえ後ろ髪引かれた。
意を決してハサミを握る。ジャキ、ジャキという音がブツブツと切断されていく毛を伝って体の中に響く感覚がした。何度もハサミを動かしてようやく私の体から離れた髪の毛の束を見た時、2年間の思い出が走馬灯のようにめぐった。

この2年間は天にも昇る絶頂の喜びと、笑いすぎてお腹が千切れるんじゃないかという楽しさと、自分を見失いそうになるほどの激しい怒りと、全身の水分が涙として溢れるような悲しみの全てがあった。エッセイを書いているのだから、私の経験は全て文章の肥やしになるんだ!と息巻いていた日が懐かしい。目を背けたくなるほど残酷な真実は、詳細を明言することさえできないのだと知った。私が浅はかだった。

それでも書きたいという気持ちはまだ残っている。伸びた髪を世話している時は、今までに読者のみなさんからもらったうれしい言葉を思い出した。寄付するために髪をケアするという、いただいたものを返す作業の中で救われるような気がしたのは、文章を書いて、読んでいただいて、それが嬉しくてまた書いていた日々と同じだった。

隣のオットに目を移すと、オットは寄付用の髪を切り終わろうかという所で、スヌーピーの耳のようにたっぷりした毛束を握りしめて「なんかどっかの部族の成人の儀みたいでおもしろいなぁ」とクスクス笑っていた。この人の前では感傷に浸ることがバカバカしくなり、私はそれに腹を立てることも多いのだが、救われることの方が多いのだ。

「すっきりしましたね」

はい、と美容師さんから手渡された私の2年間は所々痛んでいたけれど、柔らかくてサラサラしていて、重かったし、軽かった。もう大丈夫な気がした。

毛先が首元で揺れる感覚が懐かしい。美容院の鏡に映る30歳になった私は、今までで1番いい顔をしていると思った。大人の定義はまだ分からないが、今が1番だと思える私は、けっこういい感じの大人になれるのでは、と期待してしまう。



そう思えるのは私の衝動を見守ってくれるオットや友人、そして今これを読んでくださっているあなたのような方のおかげに他ならない。だから私は走りたい時に走り出せる喜びを文章にして、これからも楽しく生きていける気がするのだ。

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