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あたくしの愛しい人


私の通っていた大学はその昔、近所でお墨付きのお嬢様学校だった。平民の私が通えている事からお察しの通りだが、現在では普通の大学である。しかしそこに勤める先生は圧倒的にお嬢様育ちのそれはそれは上品な方が多かった。

その中でも私が特に大好きだった人が文学の教授、タドコロ先生だ。上品という言葉がそのまま人間になったような人で、会話では美しい日本語を巧みに操り、所作の一つひとつも実にエレガント。そしてたとえ500m離れた所に居ても「あ、タドコロ先生がいらっしゃる」と分かるくらいに素敵なお洋服をお召しになっていた。お洋服、お帽子、お鞄、お靴は全て同じ色味でコーディネートされ実に鮮やかで、どれもタドコロ先生のために作られたかのような個性的な逸品ばかりだった。
ある日私が先生のお召しになっているしなやかなレザーのヒールを見て「すてきな靴ですね」と声を掛けると、

「こちらの靴は、あたくしが20歳の頃に買ったものですのよ」

と嬉しそうに答えた。私はタドコロ先生の年齢を知らないが、靴を購入されてから確実に30年は経っているはずだ。つい先程おろしましたと言わんばかりに光沢を放つそのヒールは、修理屋さんにメンテナンスをしてもらいながら今も尚現役らしい。上質な靴はきちんと管理したら30年以上も美しく履けるのだと知り、物を大切にする真のお嬢様マインドに心を打たれたものである。

タドコロ先生のお召し物はその日の気分に合わせて色や雰囲気が変わるので、私はそれを見るのが学生生活の楽しみの一つだった。


タドコロ先生に興味が湧いた私は、選択科目の文学を選択した。卒業や資格の取得に関わる授業ではなかったので、クラスで受講しているのは私だけだった。全クラスの希望者合わせて5人ほどしかいない寂しい教室も、煌びやかなお召し物を纏ったタドコロ先生がいるだけでロココ時代の舞踏会のように華やかになった。

ある日いつも通り文学の授業を受けていると、ふと先生がチョークを置き、私たちに尋ねた。

「みなさま、キッスした事はおありかしら?」

お上品な先生の口から予想だにしなかった単語が飛び出し、平和な教室に緊張が走った。もちろん口を開くものは居ないが、先生は一体どうしたのだろうと皆が同じ疑問を抱えているのだけはわかった。

「あたくしは、その、キッスという物をした事がございませんの…」

白い頬をポッと桃色に染めながら恥じらう先生は少女のように可愛らしい。が、私は先生の突然の告白、そしてこの状況全てが面白くて仕方がない。グッと喉まで上がってきた笑いを唇を噛んで堪える。

「あたくし、そのキッスがどんなものか知りたくて様々な文献を調べましたわ。」

「すると、どうやらキッスは…レモンの味がするそうですね?」

随分と古典的かつロマンチックな文献でお勉強されたらしい。真剣に話す先生を傷つけまいと私は太ももにペンを突き立て、込み上げる笑いを痛みで消した。これ以上先生にキスの話しをさせたら吹き出してしまう。話題を変えようと私は先生に言った。

「先生はどんな殿方が理想なんですか?」

先生は頬だけではなく顔全体を赤くしながら「まぁ…」と声を漏らした。まんざらでもない様子の先生の姿に安堵した。

よし、そのまま普通のガールズトークと洒落込もうじゃないか。先生の好きなタイプは一体どんな人だろう。歌舞伎役者?それとも海外の紳士な俳優?膨らむ妄想と共に太ももに突き立てたペンを握る手が緩む。

「お恥ずかしいわ、こんなお話。みなさまつまらないでしょう?」

もじもじと躊躇う先生に私は続ける。

「なかなか先生とこんなお話をする事ってありませんし、興味がありますよ。どんな方ですか?」

「…らゆきさま…」

「え?」





「紀貫之さま」


袖ひちてむすびし水のこほれるを
春立つけふの風やとくらん

紀貫之(866〜945年) 平安時代の歌人


一瞬の油断が命取りとはこの事だ。
もうダメだった。予想外の所からヤァと飛び出してきた紀貫之に私は笑いを堪えきれず、鼻水を吹き出しながら打ち上げられた魚のようにビクビクと痙攣した。


声だけは、声だけは上げまいと堪えるが、人間感情を抑圧されればその分爆発してしまう物である。ついに我慢できずアーと声をあげ笑ってしまった。
先生のきょとんとした顔を見て胸が痛んだが、この状況で笑わぬ方がおかしいというものだ。
ひとしきり笑った後、適当な嘘を並べて今の笑いは先生のことを笑った訳ではありませんよ、と嘘八百の弁明した。
絶対に怒られると腹を切る覚悟をしたが先生は、

「あら、突然笑い出すなんて。
  面白いお嬢さまだこと。」

といつも通りの上品な笑顔でオホホと笑った。



私がもし紀貫之だったらこの面白さを和歌にして古今和歌集に載せただろうに。
全くもって残念である。

いただいたお気持ちはたのしそうなことに遣わせていただきます