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蝶として死す 羽生飛鳥著 平家物語推理抄 その2

弔い千手、頼盛は鎌倉で歓迎を、受ける.頼盛は都が大飢饉に、襲われている実状を伝え、食糧を届ける助言をし、後白河法皇や右大臣九条兼実との、橋渡しを務めていた、当時、鎌倉には甥の三位中将平重衡が、虜囚としていた、大仏殿を焼いた罪でやがては、南都に引き渡される.鎌倉で頼盛は頼朝の娘、大姫が、夫の木曾義高が、逃亡したので追ってを、差し向け打ち取られたのを、悲しみに、とらわれて乱心している、なんとか頼盛殿の知恵でと言われる、大姫の真の怒りを突き止める、頼朝より取り上げられていた、領地を取り戻してもらった.都が穏やかになったと聞き、息子達と都に戻ることにした.六代秘話、都に帰った頼盛は隠居した、頼朝の舅北条時政が上京して来た、時政の正妻牧の方は頼盛の、母方の従妹、時政のところに、密告があり、平家の嫡孫の六代が、頼盛のところにかくまわれている.と密告があり、確かめに来たのだ、為盛がそうではなのいか、為盛は俱利伽羅峠の戦いで、義仲の家人樋口兼光と争い、討ち死にしていているはず.為盛は二十を超えているはずなのに、お目にかかった為盛は、どう見ても十二三才にしか見えない、六代と同じ年頃ではないですか、都に戻り武家ではなく、貴族として行く道に、暗雲が生じた、時政も必死である.逃がせば従兄弟の己も、厳しい頼朝に池殿と共に、粛清されかねない、三日の後に六代か否かの答えを頂きに、参上します、三日待っていた頼盛は、厳島神社に宝物を、奉納するたびに、厳島大明神と結縁する為に、手形を奉納品の一覧の文書に捺していたと言い、取り寄せた手形の押され巻物を、広げて六代のところを示した.為盛を呼び入れて、時政の目の前で手形を、取らせた.この為盛の手形と六代のと比べてみるがよい、時政は目を皿のようにして、見比べて六代ではないのを、理解した、為盛の正体をあかす、あの子は息子ではなく孫である.子為盛は討ち死にした、大将維盛の無策のために、為盛は若い時に、子をなした、その子引き取り父の名を名乗らせたのだ.時政は池殿に尋ねた、池殿は木曾殿の家人樋口兼光が監視している、最中に脱出し鼻を明かした、樋口兼光は為盛の首をはねた、樋口兼光は義経に降伏し、処刑された.六代と六代をかばうために、為盛を六代と偽って池殿へ、意趣返しを果たそうとした、者を処刑するのは、わし、池殿は刀も弓も使わないどころか手も、汚さず様々な敵を、討ち果たしてきた、油断のならないお方だ.時政は言う知恵者の頼盛なら、鎌倉と朝廷の橋渡し努めて、下されば万事うまくいきます.断る度重なる誘いにも、乗らず、池殿流平家を守り通す、都の大飢饉を頼朝に、知らせたことで都にも鎌倉にも、恩を売ることができた.池殿流平家の家の子郎党達は、頼盛の名を出せば都でも鎌倉でも、生きていくことができるようになった、これ以上は望まない、望めば恨みを買い、足をすくわれ滅ぼされてしまう.文治二年の七月都近郊の、ある山中、七人の若者達が登っていた、平頼盛の息子達だ.父の四十九日の墓参りに、向かう途中、平家一門の怨霊に、たたられ雷に打たれて死んでも熱病で悶え死んでも、おかしくないのに、我ら子や孫、曾孫一同に看取られ大往生、今も亡くなったことが信じられぬと、最初に口をきいたのは長男の保盛、いまだに父上には、わからないことがある、壇ノ浦で平家一門が滅んだ時、家人達の多くは、落ち延びていったと聞くから、その中に弥平兵衛とその一族もいたにちがいない、それなのに最後まで、父上は探し出そうとしなかった.筆頭家人として池殿流を支えた、忠臣を懐かしむ.父上は長らく清盛伯父上に、よって心を殺され、だが、その比類なき知恵で我らを、生き永らえさせてくれた、その事実を、しかと心に刻んでいよう、ことあるごとに、[蝶となってみせる]と言っていた、木立を抜けた先の、都を一望できる開けた場所に、頼盛の墓所がある.[あれは―]石塔にかけられた、赤地に金の蝶の紋様の入った唐綾の直垂を見つけた.何者かが、墓に手向けたのだ.風に揺らめきそのたびに、直垂の錦糸が、日を浴びてきらめき、宙を舞う蝶のように、為盛達は、言葉もなく見つめ続けた.この終わり方が、すばらしい、誰が、蝶の直垂を墓に手向けたか、暗示し読者に想像させるのだから.登場するのは、殆ど実在の人物だがしかし、物語はすべて架空、さもありなんと、思い読んでしまいます.蝶は平家の紋様です.第二作[揺籃の都、平家物語推理抄]も出ています.お読みになるなら、是非、[蝶として死す]から、お勧めします.ちなみに、六代御前の墓は、逗子駅から海岸へ行く、途中にあります.



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