【追悼】名将・ヤクルト野村克也監督の戦績を振り返る/ライバル監督との対戦成績

昨日3月28日、神宮球場で行われた東京ヤクルトスワローズ対阪神タイガースのデイゲームは、昨年2月11日に逝去した野村克也さんの追悼試合となった。

野村克也さんは1990年から1998年まで9年間、スワローズを率い、セ・リーグ優勝4回、うち日本シリーズ制覇3回を果たし、1990年代の強いスワローズをつくりあげた。そのときの教え子たち、「野村チルドレン」がいまや指導者として、野球界を支えているのは論を待たない。

野村さんがヤクルト監督時代に背番号「73」を着けていたことにちなみ、この日、追悼試合に臨むヤクルト、阪神の監督・コーチ・選手たちは、全員、ユニフォームに背番号「73」を背負った。

試合前のセレモニーでは、監督・野村克也の功績を称える映像が、神宮球場のバックスクリーン上のビジョンに流れ、始球式は、野村さんの孫である野村彩也子さん(長男・野村克則さんの娘)が務めた。
試合中、イニング間の攻守交替時には、ビジョンに、野村さんが生前に残した言葉と、野村さんから選手時代に指導を受け、現在、指導者として活躍する野球人たちである伊東智仁、池山隆寛、高津臣吾、矢野耀大から、師である野村さんとの絆を表すエピソードと感謝を語るメッセージが交互に、映し出される演出があった。

野村さんの遺した言葉で、この日、映し出されたのは以下の言葉の数々である。

「俺の野球人生 最大の失敗は、阪神の監督を引き受けたことだ」
「当たり前のことを当たり前にやる。それがプロだ」
「考えて野球せいっ!」
「優勝チームに名捕手あり」
「人間最大の敵はなんであるか。それは鈍感である」
「ホームランは麻薬」
「野村野球とは、プロセス重視の準備野球である」
「野村引く野球、イコールゼロ」
「もうダメだ、ではなく、まだダメだ」

13時プレイボールの試合は、両軍先発、ヤクルトはプロ2年目でプロ初勝利を目指す奥川恭伸、阪神はガンケルで始まった。阪神が序盤から終始、有利に試合を進め、結局、8-2で阪神が勝利した。
ヤクルト先発の奥川は5回3失点とまずまずの結果だが、敗戦投手となった。ヤクルトは打線が阪神先発のガンケルの前に沈黙し、中継ぎも崩れ0-7となった終盤、8回裏に山田哲人のシーズン初安打がシーズン初本塁打となる2ランが飛び出し、完封負けを免れた。
野村さんは阪神の監督に就任後、背番号「82」を背負っており(最終年の2001年に、背番号「73」に戻した)、なんとも因縁深いスコアとなった。
ヤクルト・高津臣吾監督と阪神・矢野耀大監督の、野村チルドレン・指導者対決は、矢野監督に軍配が上がり、阪神が2015年以来、6年ぶり(敵地では2004年の巨人との開幕3連戦以来、17年ぶり)となる開幕3連勝を収めた。

さて、名将といわれる野村克也さんだが、最初に監督を務めた南海ホークスのプレイングマネージャー時代を含め、ヤクルト、阪神、楽天という4つのチームで合計24年のシーズンで指揮を執り、通算1566勝1564敗、勝率.5003という戦績であった。
監督として指揮を執ったシーズン数はNPB歴代3位、監督通算勝利数は歴代5位、リーグ優勝5回、日本シリーズ制覇3回も、ともに歴代9位である。

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監督・野村克也のチーム別・シーズン別の戦績は以下の通りである。

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では、スワローズ・野村監督はどのチーム、もっと言えば、どの監督との対戦に強かったのだろうか?
勿論、プロ野球の勝敗は監督の采配だけで決まるものではなく、その時のチームの戦力にも大きく依存するのは言うまでもないが、ライバル監督の対戦成績は気になるものだ。

スワローズ・野村克也監督の対戦チーム別の勝敗、勝率は以下の通りである。

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「野村ヤクルト」が9年間でもっとも得意にしていたのは、奇しくもその後、指揮を執ることになる阪神タイガースである。通算で148勝88敗、勝率.627で貯金60をつくっている。
もっとも、この時期の阪神は、9年間でAクラスがわずか1回であり、最下位が5回もある。
次に野村ヤクルトが強かったのは、横浜大洋ホエールズ(1992年以前)・横浜ベイスターズ(1993年以降)である。大洋・横浜もこの9年間でAクラスが3回、一方、5位以下が5回もあるため、カモにしていたのは想像に難くない。通算133勝103敗、勝率.564で貯金30を稼いだ。
3番目は広島カープで、通算121勝115敗、勝率.513、貯金6である。
この間、広島はリーグ優勝1回を含む、Aクラス6回で比較的、強かった時代である。

一方、野村ヤクルトが通算で負け越したチームは、中日ドラゴンズ、そして読売ジャイアンツである。
中日とは通算115勝121敗、勝率.487、借金6、巨人には通算111勝125敗、勝率.470、借金14をつくった。

それでは、野村ヤクルトの戦績を、対戦チームの監督別にみてみよう。
9年間で、代行監督のみの4人を含む17人の指揮官と対戦している。

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野村ヤクルトがもっともカモにしたのは、中村勝広監督率いる阪神(1990年-1995年)であり、通算85勝63敗、貯金23を稼いだ。負け越したのは最初の1990年だけで、翌年は勝率5割、その後の4シーズンは勝ち越している。
次はやはり吉田義男監督が率いる阪神(1997年、1998年)で、2年間で37勝17敗、貯金20を稼いでいる。
3番目も藤田平監督率いる阪神(1995年途中から、1996年途中まで)で、対戦数は少ないが25勝6敗、貯金19と大きく勝ち越している。

その次は、近藤昭仁監督が率いる横浜ベイスターズ(1993年-1995年)で、47勝31敗、貯金16、その次もやはり、須藤豊監督が率いる横浜大洋ホエールズ(1990年-1992年途中)で、33勝22敗と大きく勝ち越し、貯金11をつくった。同じ捕手出身で、1996年、1997年に横浜を率いた大矢明彦監督にも通算30勝23敗と勝ち越し、貯金7を稼いだ。

ほぼ互角だったのが、中日ドラゴンズを率いた高木守道監督と広島東洋カープを率いた山本浩二監督である。

高木守道監督とは、野村ヤクルトは1992年から1995年途中までの間に、通算44勝42敗と勝ち越しているが、ほぼ互角と言ってよい(この期間中、高木守道監督のチーム通算成績は215勝214敗)

広島の山本浩二監督とは1990年から1993年までの4シーズンを戦い、52勝52敗で全くの互角であった。野村さんがヤクルトの監督に就任した1990年に4位に沈み、一方、山本浩二監督率いる広島は2位、翌1991年は広島が優勝しており(ヤクルトは3位)、この2年間は負け越したが、その後はヤクルトが2年連続リーグ優勝する一方で、広島はBクラス(4位、6位)に沈んでいる。

野村さんは生前、「外野手出身に名監督なし」という持論を展開していたが、山本浩二監督は、言わずと知れた外野手出身である。

逆に野村ヤクルトが負け越したチームの監督は、以下の4人である(代行監督のみを除く)。
勝率のワースト順に並べると、

① 横浜・権藤博(1998年、1年)    11勝16敗 勝率.407(借金5)
② 巨人・藤田元司(1990-1992年、3年)   34勝44敗 勝率.436(借金10)
③ 中日・星野仙一(1990-1991年、1996-1998年、5年)60勝72敗 勝率.454(借金12)
④ 巨人・長嶋茂雄(1993-1998年、6年) 77勝81敗 勝率.487(借金4)

面白いことに、野村ヤクルトが通算勝率の悪かった対戦監督のワースト3は、いずれも投手出身の監督である。
野村自身が「投手出身の監督は大成しない」と言っていたにもかかわらず、野村が苦手にしていたのは投手出身の監督が率いていたチームだったということになる。

横浜・権藤監督とは1998年の1シーズンだけの対戦だが、当時、野村と権藤は、監督の在り方などをめぐって、舌戦を繰り広げていた。権藤は監督就任時に「捕手出身の監督には負けたくない」と発言し、一方の野村も、権藤に対する舌鋒は鋭かった。
しかし、横浜がマシンガン打線と大魔神・佐々木主浩らを擁して快進撃を続け、勢いは止まらず、リーグ優勝へのマジック3で臨んだ、地元・横浜でのヤクルト4連戦では、野村ヤクルトは最後の意地を見せ、3連勝で目の前での権藤の胴上げだけは阻止した。
結局、野村ヤクルトは5つ負け越し、権藤監督に就任1年目でチーム38年ぶりのリーグ優勝を許した。ヤクルトは4位に終わり、野村監督はこの年限りでヤクルトの監督を退いている。
(ただし、野村の逝去時に、権藤は「野村さんのすごさは人材を見極めること」などとコメントし、野村の監督としての手腕は認めている)


野村ヤクルトは、藤田元司監督率いる巨人にも分が悪かった。特に野村監督が就任1年目の1990年に、リーグ優勝した藤田巨人に7勝19敗と大きく負け越して、5位。
翌1991年、ヤクルトは3位に終わったが、4位の藤田巨人には14勝12敗と勝ち越した。1992年に野村ヤクルトが初優勝した年は、藤田巨人とは13勝13敗で五分の勝負だった。

尚、野村は「投手出身の監督は『精神野球』で、本質からかけ離れている」と言ったが、「ただひとり、藤田元司をのぞいては」と付け加えた。

一方、野村は星野仙一が2004年の北京五輪の監督としてメダルを逃した際、「投手出身の監督は視野が狭い」と喝破した。

だが、星野仙一監督とは、第1次政権(1990-1991年)のときは2年間で26勝26敗で互角、第2次政権での3年間(1996-1998年)で34勝46敗と大きく負け越した。しかも、野村ヤクルトが、星野監督率いる中日より上の順位になったことは、1997年の一度しかない。
それでも、星野仙一監督率いる中日は、野村ヤクルトと対戦した5年間で、リーグ優勝は一度もなかった。
野村と星野は、その後、阪神と楽天で、星野が野村の後任という形で監督を引き継ぎ、いずれも、星野の代でリーグ優勝を果たすという因縁がある。

しかしながら、野村克也にとって監督としても最大のライバルだったのは、長嶋茂雄だったといってよい。
野村は現役時代から、スーパースター・長嶋を意識する発言を繰り返していたのはあまりにも有名だが、そのライバル心は、監督同士になってからも引き継がれた。
いや、同じリーグの監督になったことで、その敵愾心が増したことともいえる。
1993年から1998年までの6年間の対戦で、野村ヤクルトの77勝に対して、長嶋巨人は81勝。この間、野村ヤクルトのリーグ優勝は3回、長嶋巨人のリーグ優勝は2回である。

長嶋茂雄が2度目の巨人監督に就任した1993年、野村ヤクルトは80勝50敗という圧倒的な強さでリーグ2連覇をしたにもかかわらず、3位に終わった長嶋巨人には12勝14敗と負け越した。

1994年、第二次長嶋政権の巨人が初めての優勝を収めたシーズンは、野村ヤクルトは長嶋巨人にやはり11勝15敗と負け越して、4位に終わっている。一方の長嶋巨人は、高木守道監督率いる中日と同率で迎えた最終戦、10.8の直接対決でリーグ優勝を決めた。

1995年、野村ヤクルトが3度目のリーグ優勝した際は82勝48敗(貯金34)、勝率.631で、3位の長嶋巨人にも17勝9敗と大きく勝ち越し、全チームから勝ち越し「完全優勝」だった。

翌1996年は、逆に、野村ヤクルトが長嶋巨人に7勝19敗と大きく負け越したことで、4位に終わり、一方、長嶋巨人は最大11.5ゲーム差をひっくり返して、「メイク・ドラマ」を果たした。

1997年は、野村ヤクルトは長嶋巨人に19勝8敗と大きく勝ち越し、大矢明彦監督率いる横浜以外の4チームに勝ち越して、野村ヤクルト最多となるシーズン83勝で、4度目のリーグ優勝を奪還した。

1998年、野村ヤクルトは、1位・横浜(権藤博監督)、2位・中日(星野仙一監督)、3位・巨人(長嶋茂雄監督)の上位3チームに共にそれぞれ11勝16敗と負け越し、66勝69敗の4位に終わった。

このシーズンを限りに、野村さんはヤクルトの監督を退いた。
直後に、阪神から監督就任の打診を受け、快諾、1999年から2001年まで監督を務めることになるが、ヤクルト時代とは打って変わって、3年連続最下位という不名誉な記録をつくり、私生活でのトラブルも重なって退団した。

それから、社会人野球のシダックスのGM兼監督を務め、都市対抗野球で準優勝に導くと、阪神監督退任から4年後の2006年から、球団創設2年目の東北楽天イーグルスの2代目監督を引き受け、就任4年目にはチーム初のAクラス、2位に導き、初のクライマックスシリーズ進出も果たした。

野村さんは楽天の監督を退任後、現場で指揮を執る機会はなくなったが、野村さんの教えを受けた野球人たちが様々なチーム、様々な立場で指導者として活躍している。

明治から大正、昭和にかけて活躍した政治家に後藤新平という人物がいる。
彼は医師から政治の世界に入り、台湾・満州の統治に携わると、関東大震災後には復興計画を立案・指揮し、東京市長も務めた。
その後藤が晩年、脳溢血に倒れる直前に、こんな言葉を遺したという。
『財を残すは下、事業を残すは中、人を残すは上なり
されど、財なくんば事業保ちがたく、事業なくんば人育ちがたし』

これが野村さんの終生の座右の銘の一つとなったが、まさにそれを地で行く監督人生だったといえる。この点においては、ライバルとしてしのぎを削った他の監督たちと比較しても群を抜いていたといえよう。
この日の追悼試合のように、野球ファンは、これからも野村チルドレンの指導者同士の戦いを数多く、楽しむことができるに相違ない。

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