営業知識0だけど買って欲しい
生暖かい雨が梅雨の始まりを感じさせる。肌にまとわりつくような重い空気の中、カフェのカウンター内だけは少しだけ賑やかで、明るい照明と相まって周りから浮いて見えた。
「やったー!何食べよっかな。」
お客様に聞こえないくらいの、ぎりぎりの声で喜んでいるのは私。その隣で頭を抱えている小柄な男性は、私の大好きな先輩のスターだ。
「今日は雨だし、蒸し暑いからアイスが出ると思ったんだけどなあ」
「残念でしたね。朝はやっぱりホットですよ」
最近よく、スターと一緒に小さな賭けをする。負けた方はこのカフェで何でも好きなものを奢るのだ。ちなみに今勝負していたのは、「10分間でアイスとホット、どっちが多く売れるか」。
私はホットに賭けて、スターはアイスに賭けた。結果として、鼻差でホットのほうが多かったため、私が勝利を掴んだ。
「いやあ、今回は焦りましたね。いつもは私の圧勝なんですけどね。」
「勝ったと思ったんだけどなあ。次は勝つ。」
私の感がいいのか、スターが気を使って勝ちそうな選択肢を譲ってくれているのか、この勝負の勝率は私の方が圧倒的に高い。
キャンペーンの始まり
そんなとき、キャンペーンが始まるよ、とのお達しが本社からきた。
前提知識として少し書いておきたい。
私の働いているカフェでは、全国の店舗で使えるカードが売られている。
単なるポイントカードではなく、お金をカードに入金して、そのカードでお会計をするとポイントがたまるプリペイドカードであり、カードを購入するのにも300円かかる。
そして今回のキャンペーンは
このカードを、どんどん売っていこう。
売り上げがいいお店にはご褒美あげちゃうよ。
という内容だった。
みんなに積極的になってもらうために店長はキャンペーン期間中に次のような制度を導入した。
【カード売上対決】
1,チーム戦
店長を除くカフェ店員を、「階級・シフト」のバランスが均等になるように、チームに分け、個人の売り上げ枚数の合計を競う。
2,個人戦
個人の売り上げ枚数を競う。上位3名には店長からちょっとしたプレゼントをもらえる。
誰がどれだけ売ったかは、事務所のホワイトボードに随時記載する。上位入賞者は店長からちょっとしたご褒美が貰える。
チーム表を見る。スターとは違うチームなのは当然か。個人の売り上げトップ争いは私とスターになることは、すでに目に見えている。
負けず嫌いの私としてはこの競走、大変に燃える。個人としても、チームとしても、スターには負けたくないな。
上手くいかないサジェスト
とりあえずサジェストしやすいポジションのレジに立つ。注文しながら横に目を向け、後ろに並んでいるお客様がいないことを確認する。
お客様が「以上で」と声を上げる。ふう。肩の力を抜き、カードを指さす。
「こちら、うちの系列で使えるカードなんですけど、よかったらいかがですか?」
「んー大丈夫です」
にべもなく返される。自分の気持ちが少しずつ萎れていくを感じながら、お会計を済ませ、声をかけただけでも素晴らしいことだと自賛する。
そのあとも声をかけてみるが、やはりほとんどの人に断られてしまう。2時間ほど経過し、だいぶサジェストをするのに辟易してきたころ、スターがレジ代わるよ、と声をかけてきた。
洗浄に入り、とりあえずお皿でも戻すかと、トレーを持ち上げてレジのほうに向かっていく。
ん、スターが長々とお客様と話し込んでいる。というよりは何か説明しているようにも見えた。
そしてスターの手元を見ると、そこにはカードが握られていた。
このたった数分の間でもう売り上げたのか。私なんて2時間でたったの3枚しか売っていない。
いや、でもたまたま運が良かっただけかもしれない。そう思い込む私をよそに、スターはその日、2時間でなんと8枚も売り上げたのだ。
何が違ったのか。何がいけなかったのか。シフトを上がる時にもらったアイスティーを飲みながら思い返してみる。
そういえば、スターはサジェストするときに、お客様の興味を引くような言い方をしていた。
「今だけのキャンペーンをしている」
「ポイントが溜まるお得なカード」
「手続きなしで今すぐ買える」
キャンペーンやポイントという言葉に惹かれる人は多いだろうし、忙しそうな人は手続き不要に惹かれるだろう。
きっとスターはこれらの言葉を使い分けている。私みたいに闇雲に声をかけていくのではなく、相手を選び、相手に合った言葉を選ぶ。
私は時間短縮のために最低限のことしか伝えなかったが、そこにプラスαをするだけで全く変わってくるのか。
プラスαの工夫
次のシフトから実践してみると、効果はすぐに出た。興味を持って聞き返してくれる人が増え、買ってくれる人も増えた。
そして気が付いたことがある。お客様はカードに300円払うのに少し抵抗があるみたいだ。「300円払うってこと?」とよく聞かれる。
カードにお金を払うという行為は損をしていると感じさせてしまうのだ。
こういう場合は、相手が損をしていると感じさせる前に先手を打ったほうがいいのかもしれない。相手が悩むそぶりを見せたら
「最初に300円かかっちゃうんですけど、もともとこのカードの中に300ポイント入っているので、実質タダなんです!」
と言うようにした。そうすると、またお客様の反応が変わる。
「あら、そうだったの?」と。
300円と大きな文字で書かれた横に300ポイント付加という文字が書かれていても、パッとは理解しがたいのだろう。
視覚で得づらい情報を口頭で提供する。
このひと工夫でまた購入率が上がった。
キャンペーン最終日。
お店の鍵を開けて事務所に向かい、ホワイトボードを確認する。今日で8枚売り上げなければ私はスターに勝てない。
平日の朝は、会社に向かう前に立ち寄ってくれるお客様が多い。電車に乗りたいお客様もいるので、時間をとるサジェスト行為は控えるようにしていたが、それでは到底追いつけない数字だ。
並んでいるお客様を待たせずにサジェストする方法、、
朝はほかの時間帯に比べて常連さんが多い。顔なじみで、何を注文するかもわかっているような人を狙って、ある行動を起こした。
それはお客様の席まで出向いてサジェストすること。
もちろん、朝の至福のコーヒータイムを邪魔しないように細心の注意を払うように心掛ける。
これが大成功した。5人に声をかければ4人は買ってくれる。どんどん声をかけ、1時間しないうちにスターの枚数に追いつくことができた。
おっと。レジ前のカードがなくなったことに気が付き、裏側の箱から補充しようと手をかけると、妙に箱が軽いことに違和感を抱いた。
もしかして、、
やはり箱は空っぽだった。カードが売り切れてしまったのだ。私とスターの勝負はこんな形で終わりを迎えた。
やりきれない思いでいっぱいになるが、仕方がない。スターに並べただけでもすごいことだ。結局チームも私のチームが勝ったし、負けたわけではないのだから十分じゃないか。
思いがけないサプライズ
次の日スターと会った。
「すごいね、まさか追いつかれるなんて思わなかったよ。でも今回は僕の負けだね。売り切れていなかったら、きっと追い越されていたよ。」
「ふふふ。そうですよ。だから何かご褒美ください!」
冗談のつもりだった。いつもの、他愛無い会話の流れ。
帰りに自分の引き出しに小さな封筒が入っていることに気が付いた。中にはカードと、小さなメッセージが書かれた紙が1枚。
ほんの気持ちだけど、ご褒美だよ。
達筆な字で書かれた紙は、名前を見なくてもスターの字だとわかった。なんて人なんだ。こんなに嬉しいサプライズはない。快哉の声を上げ、隣にいた店長に自慢をする。
スターにもらっちゃった。
この時私は気づいていない。そのカードには5000円という、当時大学1年生の私にはあまりに大きすぎる額が収められていたことを。
〜エッセイ⑩〜
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?