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『宝石商リチャード氏の謎鑑定』辻村七子著を語る-その1

(注・ネタバレあり)

泣きたくなるほど優しい物語である。

途中まで、主人公2人の関係性を既存の定義に当てはめたいと思いながら読んでいた。具体的に言うと、これはいわゆるBL(ボーイズラブ)なの?と訝りながら読んでいたことを否定できない。

念のために確認しておきたいが、わたしはBLを含む性的嗜好で人を差別したくないと思っている。リチャードが銀座に開いた宝石店、エトランジェの約款に完全同意する立場にあることを表明しておきたい。


《エトランジェの約款》
人種、宗教、性的嗜好、国籍、その他あらゆるものに基づく偏見を持たず、差別的発言をしない(『宝石商リチャード氏の謎鑑定』より)


10巻まで読み終えた今は、名前の付けられない関係性が存在することを教えるお話なのではないかと考えている。リチャードと正義が作り上げる唯一無二の関係。この先どう転ぶかはまだ2人にも分からない。

考えてみればわたしと周りの人との関係も、どれ一つとして同じものはないし、どの人間関係も、この先どう転ぶのかは分からない。

リチャードと正義は丁寧に感情のやり取りをする。相手の感情と自分の感情を大事に大事に扱う。彼らを見て、人との関係が繊細なものであることを改めて思い出しもした。

7月の初めに1巻を読み始めて、1ヶ月後には10巻目を読み終え、第2部を中心に何度も読み返し、マンガを読み、アニメを見終わった。

英語の勉強を再開し、スリランカの歴史を知り、スリランカ の長い首都名(スリジャヤワルダナプラコッテ)をそらで言えるようになり、タミル語でのあいさつ(ナバッカム)を学び、モーリタニア(タコの原産地)とポトシ(銀の産出地)の場所を覚えた。影響力が大きすぎるんじゃないかな。


* * *


心に残るシーンがいくつもある。

DVを経験した正義が抱えていた自分自身への疑いの眼差し。ここを読み進めるのは少し勇気が必要だった。虐待を受けたことのあるわたしも同じものを持っていたからだ。娘には、自分がされて嫌だったことはしないと自分に言い聞かせて向き合ってきた。虐待は連鎖する可能性があると知っていたから、自分が連鎖のもとになることが怖かった。

連鎖させないで済んだと言っていいのではないかと思っている今も、連鎖が怖いから、つまり自分が子どもを虐待してしまうことが怖いから、子どもを持つことに躊躇いがあるという気持ちが痛いほど分かるし、その不安に対して何も言ってあげられずにいた。

DVは、するかしないかだ。連鎖を信じて、自分を信じないことは、同じ境遇を生き抜いた子どもたちへの侮辱にあたるとリチャードは言った。わたしはずっと自分や、同じ境遇にあった人たちを侮辱してきたのか。

英語を話すようになった正義が帰国して、言葉の海で溺れるような息苦しさを感じる場面。自分が感じていることを日本語で言い表すことができない。戸惑う正義にリチャードが言う。その戸惑いを心地よく味わうように、その海にはあなたの血肉になる、いろいろなものが落ちているはずだと。

英語圏で暮らしているわたしが時々感じる苦しさもそれに似ている。日本人と日本語で話しているのに伝えられない、もどかしい、変わってしまった自分を持て余すような、どうやっても誰にも分かってもらえないような寂しさには覚えがある。

正義とリチャードのやり取りが、この気持ちから目を逸らさずに、もっと見つめる必要があることを教えてくれた。作者の辻村さんも同じところをくぐり抜けてきたのだろうか。

いくつもの宗教を体験した後にたどり着いたシャウルさんが持つ美への信仰には、驚きと共感を覚えた。世界を美しい場所にするために力を尽くしたい、そのために宝石商になったと語るシャウルさん。

それならわたしも同じ信仰を持っていると言えるかも知れない。美しいものが何より好きだ。美しくありたいと願うし、美しいものが見たい。


* * *


全編を通して好きな場面はいくつもあるけれど、忘れられないのは正義がリチャードを、リチャードが正義を待つ場面だ。


傷ついて戻ってくるかも知れない正義を待つリチャード。リチャードの予想通り、5時間後に現れた正義にリチャードが言った台詞は忘れられない。正義をピックアップしたジャガーが東京の街を走る。


黙って姿を消したリチャードを追いかけてロンドンにやって来た正義。正義に宛ててリチャードが残した暗号。記憶を頼りに暗号を解読する正義。その果てに、ラピスラズリの展示室で再会する二人。


実の父に少しずつ精神を消耗させられ、弱っていく正義を黙って見守るリチャード。最後まで打ち明けられない正義を救った東京都心のホテルにある極上のレストラン。リチャードはずっと、正義に助けを求められるのを待っていた。


海の方を向いて電話で話す背中に一歩一歩近づく正義。その電話の相手をしながら、同時に今にも振り向いて驚いた表情をするんじゃないかと、悪戯っぽい心持ちでリチャードを見つめた豪華客船の甲板。


そうとは告げず予定外に帰国した正義。銀座のデパ地下で手に入れたスウィーツと正義が作ったプリン、ロイヤルミルクティ、テーブルの上にリチャードの好物ばかりを並べて待ったスリランカの拠点。


* * *


なんて豊かで温かく、優しい関係なんだろう。できることなら、この世界にいつまでも浸っていたい。



気になることが二つある。一つは正義がリチャードを「おまえ」と呼ぶことだ。読み進めるうちに初めに感じた違和感は薄れたけれど、もともとは尊敬の意味を持つ言葉だから、ここに引っ掛かりを感じなくていいのかなと自問自答しながら読んでいた。

もう一つは単純な好奇心である。リチャードが運転するジャガーだ。あれは世界で最も美しいとされるジャガー・Eタイプだと思うのだが、実際のところはどうなのだろう。アニメに出てきたモデルはEタイプ(ブリティッシュグリーン)で間違いないと思うのだけれど、マンガに登場するジャガーは明らかにEタイプではない。

世界一美しい男に似合うのは、ジャガー・Eタイプ以外にないと思うのだ。

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