凡庸さからの忌避

最近SNSのプロフィール欄に自分がなにがしかの精神的な疾患を抱えていることをこれでもかというように誇示しているのを見るにつけいたたまれない気持ちになることがある。

大体においてその手のものは最近認知されてきた発達障害等の病名を掲げている。
ちなみにネットのPOP広告でADHDの自己判断表が出てくるが自分などはほとんど当てはまってしまう。

自分が学生時代は転校、社会人になってからも転職を繰り返した。
ドキュメンタリー番組で福祉的な番組を見る度に、そういえば小学、中学時代のあいつはどうしているのだろうと思いを馳せる。ここでのあいつは福祉的な庇護の対象になってもおかしくない人間である。
当時は現在程、学校側にもガバナンス出来るだけの知識がなかった。それゆえ彼らは疎外され存在といってもよく、教室に良い思い出はなかったはずだ。

自分とて他人事ではない。成人以降、社会人になってから壁にぶつかる毎に自己啓発的なビジネス書を読み漁る、再び行き詰まるの繰り返しを経てから悟った事実がある。そういえば自分はトランプのババ抜き以外のゲームの仕組みが理解できなかったよなということだ。
周囲が述べる「なんとなく分かる」が自分にとっての越えられない壁だったのだ。それはゲームのトランプに限らずだ。それはビジネス書に救いを求めて解決出来る問題ではなく、諦観する他ないとの結論に至り随分楽になった。

さて件の教室の中で身を縮めていた彼らと再会の機会が訪れた。それは就業先でである。言うまでもないが同一人物ではない。
彼らと自分がなぜそこを勤め先として選んだのか、それはその仕事が採用されやすかったからだろう。現実としてそのような職種がある意味社会的セーフティーネットとして機能しているのだ。だがそこでも彼らにとっては、かつての教室と同じように安息の地になり得なかった。いじめの対象になるのだ。理解されにくい事実かもしれないが、そのような職場で働いている人も一面社会的弱者であるのに、弱者がさらなる弱者を追い詰めるのだ。心理としてはいじめる側であるその人たちにとって人生で感じることがほとんど無かった優越感を抱かせてしまう存在になってしまうのだ。

そこで次のように感じる人が多いはずだ。そこまで行き場がないのであれば生活保護を申請したり、障害者手帳をもらえばよいではないかと。
しかし、現実にはそんな制度にアクセスできるだけのリテラシー能力もない。
だから、僥倖ともいえるものに恵まれるまで歯を食い縛り終わりのない現状を続けるしかないのだ。立ち止まることは死を意味するのだ。

他方で制度の恩恵を受けている側にも3種類に分かれるように思う。
1つ目はは症状の重さや周囲のサポートによって。これが一番典型的なケースで制度を設計する側が想定していることであろう。
2つ目はライフハックとして。つまり弱肉強食の世の中に向いていない人が利用できるものは何でも利用しようという精神である。例えば障害者手帳というと自分とは程遠い世界の事に感じられるかもしれないが種類や等級によっては多くの人にとって該当する。だから健常者と障害者の線引きは意味はなく交付を受けるかどうかは本人の選択次第なのである。それは生活保護とて同様だ。
別にこれを悪いことだと思わない。社会制度というのは性善説で成り立つものであるし、ハードルをあげることによって産湯と一緒に赤子を捨てるような結果は制度の趣旨自体を無効にしてしまうからだ。

問題としたいのは3つ目だ。自分自身の箔づけとして活用されるパターンだ。
ここ十年程著名人が自分が発達障害等のキャリアであることそして幼少期に様々な誤解を受けてきたことを明らかにすることが多い。
ファーストペンギンは勇気が必要でリスクがあったと思う。
しかし、現在それを告白することはなんのリスクもないのは先人のお陰で社会的認知度が高まったからである。

だから、冒頭で述べたようなSNSのプロフィール欄に交付されやすい障害者手帳を持っていることを誇らしげに書いてあるのを見ると訝しく感じることがあった。というのはもっと重い症状で苦しんでいる人もいるのに、ファッションのように扱うのはあまりにも軽んじているように思えたからだ。
過度の神聖化は差別を呼び起こし、逆に世俗化し過ぎるのもどうか。答えは無いが、よりよい社会的なコンセンサスを求めて模索しているというのは現状だろう。
ただ1つ言えることは先人のお陰で昔よりはよくなったことは確かだ。

なぜ上記のようなことを縷々書いてきたかというと障害者手帳メンコ大会という動画をみたからだ。
相当以前の動画で当時は炎上し不謹慎との批判が殺到したようだが、自分はそれ以前に参加者が気の毒に感じた。意識が高い系の人間達が集まって虚勢を張り合って辿り着いたのがこのあそび。どんなシナジー効果だろう。
自分には単なる自己の凡庸さが逃れようとしてあがいている痛々しい姿にしか見えなかった。だから動画上でもすべっている空気しか伝わってこなかった。
もちろんメッセージ性も発信出来ているとは思えない。

芸術系の大学でスランプに陥った学生が、幽霊を見たと周囲に言いふらすことがよくあるという。それは他と比べてあまりに自分が凡人であることに直面して平常でいられず、風変わりなことをいって自分を取り繕ろおうとするのが理由なようだ。

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