068.運転免許証

昭和56年(1981年)大学三年生の年明けに、私は家の近くの自動車教習所に通い始めました。学生のうちに運転免許証を取得しておきたいと思ったのです。あの頃はまだマニュアル車のみの教習で、オートマチック車限定免許は、十年後の1991年に創設されることになります。

大学の友人の中には、一括払いの合宿で免許証を取るコースに申し込んでいた子もいましたが、私は家の近所にある教習所を選びました、ここなら講習費は毎回のチケット制でした。循環バスでの送迎があるのも魅力でした。

私が「教習所」という言葉から最初に連想するのは、アルバイト代との闘いです。私は大学の授業料や生活費も自分で支払っていたので、ある時教習所の講習費用が払えなくなってしまい、仕方なく祖父の看病のためと称して1ヶ月の休学届を出したこともありました。

私の通っていた教習所では毎週通うというのが原則で、二週間程度の期間を空けて予約を取ることはできませんでした。なんとかやりくりしてきましたが、どうしても講習費が支払えなくなった時、苦肉の策として祖父を病人に仕立てたのです。もう亡くなっているので仮病にしても構わないだろうという不埒(ふらち)な考えでした。

◇ ◇ ◇

初めのうちの学科講習は、暗記が苦手な私には大変でしたが、あの頃意気盛んだった、どう見ても暗記が得意とは思えない暴走族の若者たちも皆ちゃんと運転免許証を取ったのだからと妙な具合に自分を鼓舞して、駐車禁止は交差点からは何メートル、消火栓からは何メートルなどと苦手なところを何度も口ずさんで覚えました。

始業点検も私には不得意な分野でしたが、一度でも講習がうまくいかないと、もっとアルバイト代を稼がなくてはならなくなるので、とにかく毎回真剣勝負で、すべてを丸暗記する覚悟で授業に臨みました。そうして、なんとかようやく、何段階かある学科試験にストレートで合格して、いよいよ実技クラスに進むことができました。

ところが、最初の実技のクラスで教習所のコースの外周をひと回りするという時に、私は最初の曲がり角でハンドルを回したところ、そのままグルリンと縁石に乗り上げてしまったのです。

車が大揺れして、周囲の景色が一瞬のうちにガラリと変わってびっくりしていると、隣の席の教官に落ち着きはらった声で「ハンドルは切ったら戻しましょう」と注意を受けました。私は教習所においては誰もがみな初めはこうなのかと思っていたら、「長年教官をやっているけど、ハンドル回しっぱなしの人は初めて見たよ」と言われてしまいました。

大きな事故に至らなくて本当に良かったものの、この先のことを思うと暗澹(あんたん)たる気分になりました。特別運動神経に自信があるとは思っていませんでしたが、ハンドルを回しっぱなしで縁石に乗り上げるとは自分でも情けなくて穴があったら入りたい気分でした。

しかし、そんなことでへこたれていては運転免許証を取得することはできません。うろ覚えの記憶ですが、当時実技の1レッスンが確か3,800円だったと思います。仮免後の路上講習費は4,500円だったように記憶しています。ファストフード店のアルバイト代が時給380円の時代でしたから、いくらか割りの良いアルバイトをしていたとはいえ、一度でも合格の判子をもらえないと、また何時間も働かなくてはならないことになるので、とにかく毎回一発合格あるのみと心して実技クラスに臨みました。

仮免の試験の時は、ここで落ちたら余計にあと5回講習だとくれぐれも自分に言い聞かせて、とにかくすべての講習費をアルバイト時間に換算しながら、毎回気合いを入れて講習に臨み、遂にすべての講習を最短で合格し、運転免許証を手にすることができました。「縁石グルリン」を思うと我ながら上出来でした。

警察庁の統計によれば、私が免許証を取得した昭和56年(1981年)の日本人の運転免許証保有者は、総数で44,973,064名(内、男性は31,212,847名、女性は13,760,217名)でしたが、令和元年(2019年)になると、総数で82,158,428名(内、男性は44,778,696名、女性は37,379,732名)とおよそ四十年でほぼ倍になりました。男女比は、70:30から55:45となりました。

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無事に運転免許証を手にした大学四年生の夏、それまで何も言わずに黙って見守っていた父が、突然「車を買ってやる」と言い出しました。その頃私の家には父の運転するオートマチックの車がありましたが、父がいうには、運転はとにかく経験を積むことが大切だから、マニュアル車でたくさん練習して、体で運転を覚えないといけないとのことでした。

そこで、ぶつけても凹ませても大丈夫なマニュアルの中古車を買ってやるからよく練習するようにと言われました。私はまさか車を買ってもらえるとは夢にも思っていなかったので本当に驚きました。そもそも私は父に何かを買ってもらったという経験がほとんどなかったのです。

大学に入学してすぐの頃、ロックフェラーだかロスチャイルドだか、とにかく世界の大富豪の家の子息が自分で学費を稼いでいたという話を何かで読んで、私は入学金と初回の授業料は両親に出してもらっていたものの、せめて残りの授業料や生活費は自分で稼ぎたいと思うようになりました。また当時の大学進学率は三割程度で、ましてや女子学生の進学率はさらに低かったので、多くの同学年の仲間が社会に出て働いているのだから、家賃まで支払う余裕はなかったけれど、できるだけ自立して生きていきたいと思ったのです。

父も私の考えを理解してくれていたと思っていたので、ここで急に中古車といえども車を買ってくれるということに私は戸惑いを隠せませんでした。しかし父は今ここで運転技術を身につけておかないと、あっという間にペーパードライバーになって、せっかくの運転免許証が無駄になるから、とにかくマニュアル車でたくさん練習して技術を身につけるようにということでした。

思いがけないことでしたが、その言葉に甘えて私は中古のサニークーペを買ってもらいました。50万円くらいでした。今、ここにサニークーペと書くだけでも、愛おしさが甦ってきます。ハッチバックの3ドアの白い車でした。手塩にかけて大切に磨き上げ、青春を共に過ごした思い出深い車です。

幸いなことに、バンパーを少し擦った程度で、ほとんどぶつけたり凹ませたりすることはありませんでしたが、最初の頃、助手席に乗ってくれた父は戦々恐々としていました。結果的には大丈夫だった狭い路地でのすれ違いや、ズリズリ下がる坂道発進、人と車と自転車がごちゃ混ぜの開かずの踏切、高速道路入り口での加速、舗装されていない山路、父は助手席でありもしないブレーキを両足で踏みながら付き合ってくれました。

窓の上げ下げはハンドルを回す手動でしたが、エアコンがついていました。あの頃のサイドミラーは、ドアミラーではなくて、フェンダーミラーといってボンネットの中ほどについていました。ラジオとカセットデッキがついていて、自分で編集したカセットテープをかけて走りました。メーターはすべてアナログで、カーナビなどは当然ありませんでした。小回りがきき、加速の良い車でした。

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大学四年生の夏は、サニークーペに乗ってあちこちに出かけました。初心者マークをつけて、大渋滞の夏の湘南も経験したし、まだ舗装されていなかった頃の山梨県の道志村の道を走って山中湖まで出かけたり、首都高で都心に遊びに行ったり、東名高速で富士山の麓も行きました。少しずつ運転に自信がついてきて、縦列駐車も次第に上達していきました。

就職してからもしばらくはサニークーペに乗っていましたが、ガソリン代はともかく、車検や保険、重量税や駐車場代など、薄給の週末ドライバーにとっては負担が重く、結局数年で手放すことになってしまいました。

それでも父の言った通り、身についた技術には後年助けられました。日本国内は元より、外国でも気軽にレンタカーであちこち出かけることができました。車があるのとないのとでは行動範囲が格段に違いました。

フランスでは、北はノルマンディーから南はニースやカンヌ、モナコ王国まで、平原も急峻な山道も色々なところを走りました。ロワールのお城巡りをしたり、グルノーブルから鍾乳洞にも出掛けました。円形交差点は右側優先なのでどんどん内側に追いやられていき、パリの凱旋門を気がつけば何周もしていたなどという困った思い出もありました。

少し脱線ですが、日本ではミシュランと言えば、赤色のレストランの格付けガイドが有名ですが、タイヤのメーカーだけあって、緑色の観光ガイドや、特に黄色の道路地図が大変見易くできていました。標識も外国人の私にも大変わかりやすく、例えば、この先ニースという看板があれば、次にニースという地名が出るまでは直進せよを意味していて、迷うことはありませんでした。

カナダ旅行の際は、カルガリー空港でレンタカーを借りて、バンフやレイクルイーズで乗馬の旅や急流でのラフティングを楽しみながら、ジャスパーまで2週間ほど、カナディアンロッキーを横断ドライブしたのもいい思い出です。何キロ走っても一台の車とすれ違うことがないという、日本の道路事情とは全く違う体験でした。

外国、特にフランスのレンタカーは当時、よほどの高級車でない限りほとんどすべてがマニュアル車でしたから、サニークーペで練習したのが本当に役立ちました。ルノー、プジョーなどフランスの車はエアコンもラジオもカセットデッキもついていなくて、ただ走るマシンという感じでした。始めは角を曲がろうとするとワイパーが動き出してビックリしましたが、それもすぐに慣れました。ウィンカーとワイパーの位置が日本とは逆なのでした。

国内外どこへ行っても、ちょっとレンタカーを借りてフットワーク良く出かけることができたのも、父の助言とサニークーペのお陰だったと思っています。

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サニークーペを手放した後は、時々父のオートマチック車を借りていましたが、父が入退院を繰り返すようになった頃には、主に父を病院へ送迎するために使用するようになっていきました。その後父が亡くなってからは、父の車も手放してしまったので、いよいよ運転する機会は激減しました。今は地下鉄もバスも交通の弁の良いところに住んでいるのですっかりペーパードライバーになってしまいました。

なんだかペーパードライバーでいるのは、父にもサニークーペにも申し訳ないような気がして、再び教習所に通ってペーパードライバー研修を受けようか、第2のサニークーペで練習しようか、そうは言ってももう若くはないのだから駐車場を借りるお金があるのなら、そのお金でタクシーに乗っている方が世の為人の為ではないかなどと悩みつつ、今年も免許証を書き換えて、新たな顔写真を見ながら光陰矢の如しを改めて感じています。


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