109.モロッコ旅行 3/4

モロッコ旅行 2/4より続く

男女で行動するというのは難しいことなのだと思いました。知り合ったばかりだというのに、彼がなぜそんなことを言うのか意味がわかりませんでした。今日一日の行動を振り返っても、彼が私に恋をしたとはまったく考えられませんでした。でもさっきの彼の表情から推測するに、彼は誘わないと私に失礼だと思ったのだろうかなどと考えてみました。でもとにかく眠かったので寝ました。すべては夜が明けてから考えることにしました。睡眠不足は外国旅行の大敵でした。

翌朝7時に、昨日の夜の出来事はまったく覚えていないことにして、普通に挨拶をして、普通に朝食を取りました。私たちがこの旅行でお互いがお互いを必要としていることに変わりはありませんでした。モロッコの街をひとりで歩くよりは、彼と行動を共にする方が安心できそうでした。ただ夜の対策は改めてしっかり考える必要がありました。

ジャマ・エル・フナ広場

NHKのアラビア語講座をたまに見ていると、懐かしいモロッコの風景が映ります。私が行った34年前と何も変わっていないような気さえしています。

しかしながら、今私の手元にある1984年発行の交通公社(現在のJTB)のポケット・ガイド「アフリカ」によれば当時のモロッコの人口は約2,024万人とありますが、現在の世銀の調査によれば世界第40位、3,691万人とおよそ1.8倍に増えています。すごい人口増加率です。

また通貨も当時は1DH(モロッコディラハム)=約30円ということでしたが、現在の換算レートでは1DH=約12円と通貨の価値も随分変わりました。

交通公社のガイドブックはかつてフランス語を習い始めた時、いつかアフリカ大陸を歩いてみたいと思って買っておいた一冊でしたが、肝心のモロッコ旅行の時には持参していませんでした。

語学講座でも取り上げられたモロッコの有名な観光地に、ジャマ・エル・フナ広場があります。マラケシュの旧市街は1985年に世界遺産に登録されていますが、その当時、私は世界遺産などという概念を知らずにいました。あの頃も今と同じように大勢の人々で賑わっていました。在モロッコ日本大使館のサイトには次のように紹介されています。

メディナの中心地にあたるジャマ・エル・フナ広場は,蛇使い,占い師,猿まわし,民族舞踊師,楽師,アクロバットを演ずる軽業師等大道芸人や屋台で賑わっています。同広場は,2001年,文化的空間としてユネスコの世界無形文化遺産に登録されました。
https://www.ma.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_000255.html

◇ ◇ ◇

昭和40年代(1965-1974年)に、テレビの歌謡番組から「カスバの女」という唄の「ここは地の果てアルジェリア どうせカスバの夜に咲く 酒場の女のうす情け」とか「明日はチュニスかモロッコか」などという一節が流れてきて、小学生の私は意味もわからず、いつかカスバに行ってみたいと思っていました。

大人になるにつれて、映画「望郷(原題ぺペ・ル・モコ)」「カサブランカ」を観て、ますます興味を抱くようになりました。

カスバとは迷路のような旧市街の街並みを指すアルジェリアの言葉ですが、モロッコではこれをメディナと呼びました。いつの日にか、こんな曲がりくねった道を歩いてみたいと長いこと夢見ていました。

◇ ◇ ◇

「地球の歩き方」の青年と私は、もうガイドさんを頼まなくても、なんとか自称ガイド軍団をうまく断る術も身につけて、翌日は、二人でメディナの小道を歩いたり、道端の屋台というかなんだか得体の知れないレストランで、隣の人のお皿を指差して注文した謎の食べ物を食べたりしました。

追っても追ってもブンブン蝿がやってきて食べ物にとまるのには参りました。初めの頃は懸命に追い払っていましたが、よく考えれば台所で散々止まっているのだから今さら追い払ったところで仕方ないと開き直ったら、なんとなく気が楽になりました。

ところで、この謎の食べ物がめちゃくちゃおいしいのです。名前もわからず、材料も野菜と肉のごった煮としか言いようがないのですが、コクがあって、うわ〜と声を上げたくなるほどおいしくてびっくりしました。さらにデザートについてきたヨーグルトがまた忘れられない味でした。自家製のヨーグルトのようでした。できればバケツ一杯ほどおかわりしたい気分でした。これまでの人生であれを超えるヨーグルトを食べたことはありません。

ガイドさんがいないといい写真は撮れませんでした。どっちが本来の街の姿なのかよくわかりませんでしたが、歩いては休憩して、休憩してはまた歩きました。時々甘いミントティーや濃いコーヒーで一服しました。

夕方、ジャマ・エル・フナ広場に面したカフェで休憩していると、小学校に入るか入らないかくらいの裸足の男の子がタバコを売りにきました。悪いけどタバコはいらないというと、それならバラ売りするから一本だけでもいいから買ってくれと言います。タバコ以外のものならと、バラ売りの飴を言い値で買いました。帰国して父にこの話をしたら、終戦直後は大阪の鶴橋でもタバコはバラ売りしていたなぁと懐かしそうにしていました。

日が落ちるとどこからか人がわらわらと湧いてきて、夏休みの盆踊り大会を大規模にしたような様相になってきました。写真を撮ろうとすると、チップを要求されるようなので、この目に焼きつけることにしました。

ジャグリングや、民族ダンスや、珍しい楽器の演奏など、大道芸人が大勢出ていました。私が一番おもしろいと思ったのはヘビ使いでした。絨毯の上に胡座をかいたおじさんが笛を吹くと、壺からヘビがニョロニョロ出てくるというマンガのみたいな世界がそこにありました。こればかりは私もチップをはずみました。

モロッコはフランス人にとって海辺のリゾート地としても知られていましたが、マラケシュにはその名も「地中海クラブ」という大規模なリゾート施設があって、夜になると外国人観光客も大勢出て、ますます賑わい、活気が出てくるようでした。

私は懸案事項であった今夜の過ごし方について青年にたずねてみました。私は今夜の列車でフェズに行こうと思うけれど、あなたはどうしますか?と。彼とまたホテルの隣同士の部屋で泊まりたくはありませんでした。

すると、彼もフェズに一緒に行くと答えました。衆人環視の列車の中ならば彼と一緒でも構わないので、それではと、まだまだ宵の口というジャマ・エル・フナ広場に別れを告げ、二人して鉄道駅に向かいました。もう正確な時間は覚えていませんが、マラケシュからフェズまでは列車でまる一晩かかりました。夜行バス感覚で、時間と宿代が節約になるだけでなく、ついでに安心が手に入る一石三鳥でした。

フェズの街並み

フェズは、マラケシュに先立つ1981年に世界遺産に登録されました。世界遺産の登録は1978年にガラパゴス諸島など12ヶ所が最初で、日本の法隆寺などが初めて世界遺産に登録されたのは16年目の1993年ですから、フェズが4年目に早々に登録されたのは、それだけ人々から注目されていた街だったからなのでしょう。

フェズは城壁に囲まれた街です。入り口には美しいイスラム模様の城門が立ち、その中へは車やトラックなどは一切入れず、ロバが物資の輸送の主役でした。そのために城壁内の街並みは中世そのものでした。あれほど感動したマラケシュの街並みの記憶が上書きされてしまうようでした。

強い日差しの光と影。背中にたくさんの荷を結わいつけられたロバのゆっくりとした歩み。細かいタイル細工のモスク。中庭で光を浴びて輝く水噴水。皮の匂い。頭上に翻る原色の布々。コーランの音色。土産物の数々。この細い道をいつまでもどこまでも歩いていたいと思うフェズの街並みでした。

マラケシュの例にならって、ここでも私たちはガイドをお願いしました。ただこのガイドさんは、あまり熱心とはいえず説明もおざなりでした。とはいえ、彼がいないと道に迷いそうでした。大勢のガイド志願者から守ってもらうためにもフェズでのガイドも必要だと感じました。

城壁を抜け出て、今度はメディナを一望できる小高い丘の上からフェズの街並みの全体を眺めました。異国に来たのを実感しました。

近くの小学校が終わったらしく、子どもたちが学校から駆け出してきました。ゲームや塾とは縁のない子どもたちでした。男の子は男の子でかたまり、女の子は女の子でかたまっていました。女の子たちは私たちの方を見ながら、なにやら話していました。東洋人が珍しかったのかもしれません。

本来ならフェズでも宿を取って滞在したいところでしたが、なにか突発的な出来事があって帰国できなくなるといけないので、パリへのフライトの前日はカサブランカに泊まることにして、フェズを去ることにしました。

「地球の歩き方」の青年ともここでお別れすることになりました。彼は寡黙で浮ついたところのない青年でした。旅のパートナーとしてもなかなか親切でした。しかしホテルの夜の一件があったので、これ以上のおつきあいにはなりませんでした。それでも大変お世話になりました。

カサブランカへの一等車

トーマスクックの時刻表で調べた夜行列車のチケットを買うために、ひとりでフェズの駅へ向かいました。私が駅に到着したのは夜8時か、9時頃でした。駅の構内は、窓口の前に大勢の人々がまるで座り込みストライキをしているように地べたに座り込んでいました。

これはまたどうしたことかと思って、列らしきものを探しましたがまったく見当たりません。そこで、ちょっとすみません失礼しますと言いながら、人々の間をボストンバッグを抱えて進み、なんとか窓口にたどり着きました。そこで窓口をノックして、中にいる駅員さんにチケットの販売は何時からですかとたずねると「たった今から開始します、どこまで行きますか?」と行き先を聞かれました。

すると、地べたに座り込んでいた人々が一斉に立ち上がり、われ先にと窓口に詰めかけてきて大騒ぎになりました。もしかするとモロッコでは列を作るという習慣はないのだろうか、だから行きのオルリー空港でも大混乱だったのかと思いました。

私はカサブランカまで一枚と答えると、一等車にするか二等車にするかと聞かれました。それまで一等車に乗るという発想はなかったのですが、とりあえず一等車と二等車の両方の値段を聞いてみました。どちらも日本円に換算するとそれほど高額ではなかったので、夜中の旅だし少しでも安全にと思い、それでは一等車のチケットをくださいと答えました。背後では人々がおしくらまんじゅう状態になっていました。

結果的に私は壮大な横入りをしてしまったことになり、周囲の方々に申し訳なかったのですが、けれどももし私があの時点で窓口でたずねなければ、まだまだ窓口は開かなかっただろうと自分を励ましてホームで列車を待つことにしました。

ホームに立っている駅員さんにチケットを見せると、一等車はこのあたりに停まりますよと、わざわざその場所まで連れて行ってくださいました。お礼を言ってしばらく待っていると、列車がやってきました。

ところが、十両ほどある車両に一等車は見当たりません。さっきの駅員さんもどこかへ行ってしまって、いません。私はホームを右往左往しましたが、こんなことをしているうちに列車が出発してしまっては一大事だと思い、とりあえず近くの二等車の乗り口から列車に乗り込みました。

モロッコ旅行 4/4へ続く


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