110.モロッコ旅行 4/4
まもなく列車は動き始めました。私が乗り込んだデッキにはすでに人が一杯で、車内が混んでいるのかいないのかを確認することすらできませんでした。それでもデッキにこれだけ人が立っているということは、当然座席がないということを意味していました。まったくどうなっているのでしょうか。
こんなに混雑していては車掌さんも来るとは思えないし、せっかく(多少)奮発して一等車のチケットを買ったというのに、一晩中デッキで立ったままカサブランカに行くことになるのかと、ただぼんやりとショックを受けていました。
パラシュート部隊
すると、目の前にいた軍服身を包んだひとりの青年が、座席はどこですかと声をかけてきてくれました。私が手に持ったチケットを見せると、この列車には一等車はありませんよと言うのでした。さっき駅員さんが一等車の乗車位置まで連れて行ってくれたのはなんだったのでしょうか。
彼は、周りにいた部下だと思われる数人の若い軍人に何やら現地語で声をかけました。すると彼らはすぐに二手に分かれ、前後の車両に人をかきわけて入っていきました。そして彼は私の方を向いて、今、彼らに座席を探すように命じましたから少しお待ちください、一等車のチケットを売っておきながら外国人のマダムをカサブランカまで立たせておくわけにはいきませんからねとにっこり笑うのでした。
展開についていけない思いでしたが、その親切な対応はありがたく、心からお礼を言いました。彼は私にどこから来たのかとたずね、日本からだと答えると、日本には行ってみたいけれど、とても遠すぎて一生行くことはないと思うと言いました。もしも日本にいらしたら私がご案内しましょうというと、また白い歯を見せました。
聞くと、彼はモロッコの軍隊の中でもパラシュート部隊の一員だと胸のバッジを誇らしげに見せてくれました。そしてパラシュート部隊というのは精鋭集団なので、あなたの席もすぐに見つけてきますよと言うのでした。そのまましばらく部下の方々が私のために座席を探してくれている間、隊長さんと二人で話をして待つことになりました。
彼は、あなたの宗教は何ですかと聞くので、仏教ですと答えました。仏教の神はどんな神なのですかと説明を求められたのですが、私はうまく答えられなくて、葬儀などの儀式は仏教の儀式だけれども、実のところ私は無神論者なのです、je suis athée. と答えました。というか、そのように答えてしまったのです。
その頃、私は無神論者という単語は athée(アテと発音)というのだと、知っていた単語をそのまま使っただけだったのですが、彼の反応の大きさからあとになってよく調べてみると、athée という言葉のニュアンスは、例えていうと宗教界のアナーキストといったようなものらしく、日本人が一般的に使う「これといって特別な宗派には属してはいません」などというものではないようでした。
私はアテですと言ったのを聞いた彼は、なんという怖しいことを!をいう表情をしました。まるで「私は神をも畏れぬ不届き者です」と自分で名乗ったと彼は受け取ったのかも知れません。神よ、そんなことがあって良いのでしょうかというように顔を覆い、私のために悲しんでくれました。
そしてポケットからライターを出すと、このライターは人間が作ったのだからここにあります、我々人間も誰かが作らなければここに存在することはないのです、そしてそれは創造神なのですと、突然、神の説明を始めました。私は呆気に取られていましたが、そこへ部下の数人が戻ってきて、今、席を見つけました、さあ、どうぞこちらへと言うのでした。
私は彼らにお礼をいって移動しようとした時、話が途中になってしまった隊長さんは自分の自宅の住所をノートの切れ端に書いて渡してくれました。私も同じように東京の住所を書いて彼に渡しました。そこで隊長さんとは別れ、部下の方にボストンバッグを持ってもらって人をかき分けながら車内へと向かいました。
座席にはパラシュート部隊の別の隊員が腰かけて、私のために座席を確保してくれていました。一体どうやってこの混雑した車内で座席を見つけてくれたのでしょうか。お礼をいうと、どういたしまして良い旅をと、爽やかに全員元いたデッキへと戻っていきました。
隣の席のおじいさん
昨晩もマラケシュから夜行列車で来て、今晩もまたカサブランカへと夜行列車はさすがにくたびれます。それでも、どんなに遠くてもフェズに来て良かったと心から思いました。フェズの街並みは素晴らしいものでした。
疲れてはいるけれど決して眠らないようにしなければと、通路まで人々が一杯の車内で、パスポートやパリと日本への航空券の入った、いつも小脇に抱えているセカンドバッグの取っ手に手首を通しました。
しかし、いつしか列車の心地よい揺れに身をまかせているうちに、どうやら私は眠ってしまったようです。どのくらい時間が経ったのか、私が目を覚ました時には既に夜が明けていて、窓から明るい日差しが差し込んでいました。
ハッとして我にかえると、あの貴重品の入ったバッグが手元にありません。頭から冷水を浴びせられたように全身の血の気が引きました。すると、私の隣のおじいさんが「これかね?」というように彼の懐にあった私のバッグを差し出したのです。私はお礼も言わず、引ったくるようにしてバッグを受け取ると、すぐに中のパスポートと航空券、それに現金を確かめました。
ありました。すべてありました。そしてその時、自分がどれほど無礼な態度だったかにようやく気づき、大変申し訳なかった、突然のことに動揺したとはいえ、大変失礼しましたとお詫びしました。
するとおじいさんは、いやいや、世の中には悪い人がいっぱいいるから気をつけなくてはならんぞと言って笑ってくれました。周りの人々が口々に、おじいさんはあなたが眠ってしまったので、あなたのバッグを手首から抜いて、ずっと懐に抱いて悪い人から守っていてくれていたんだよと説明してくれました。
おじいさんと周囲の方々にも何度もお礼をいうと、とにかく安全で楽しい旅をと口々に声をかけてくれました。モロッコの人々がこれほど親切だとは驚きました。カサブランカ駅に着いた時もボストンバッグまで運んでくれました。
絨毯屋のご主人
モロッコを歩いているうちに私は絨毯の魅力に取り憑かれ、小さくてもいいから一枚自分の絨毯が欲しいと思うようになりました。まだ六本木に防衛庁があった頃から、近くにあったペルシャ絨毯屋さんの前で、私は時折うっとりとペルシャ絨毯を眺めていました。イスラム様式の模様にたまらなく魅力を感じるのです。
しかし、ペルシャ絨毯は目玉が飛び出るほど高額で、とても私ごときが買えるような代物ではありません。そこでカサブランカの観光客相手のお店で大して上等でない品物なら、そこそこの値段で買えるのではないかと思いました。
どんなお店がいいのかもわかりませんでしたが、なんとなく流行ってそうなお店を選んで中に入りました。中からご主人が出てきて、さあさあどうぞ、いいものが揃ってますよとにこやかに案内を始めました。色々な品物を見せてもらい、あまり大きくなくて、色柄が美しい絨毯を手に取りました。
さあ、ここからが交渉です。あまり欲しそうな顔をすると吹っかけられると見せてもらった「地球の歩き方」にも書いてあったので、演技を交えつつ、まずは低い金額を提示してみました。するとご主人は天を仰ぎ、何を馬鹿なという表情をします。もうここは半日でもお店にいるつもりで粘り強く交渉するしかないと思い、私も床に座り込んで、二人で代わる代わる天を仰ぎ肩をすくめて交渉を続けました。
すると思ったより早く、私の思っていた値段の三分の一くらいの金額で決着がつきました。ご主人はもう私に首をくくれと言うのかね、もう破産だと散々言っていました。我ながら交渉はうまくいったものの毎回これでは疲れてしまうと思い、日本には定価があって便利だとつくづく思いました。
その日、私は日本への帰国便の再確認の電話を、パリの航空会社にしなければならなかったのですが、公衆電話を探すのも、現地通貨の持ち合わせも不安だったので、ご主人に、申し訳ないけれど料金は支払うからパリに電話をしたいのでお店の電話を貸してくれませんか?と聞いてみました。
するとご主人は梱包の手を止めて、どうぞどうぞお代なんて結構ですので、ご自由に電話をお使いください、なんなら私がダイヤル致しましょうかとイソイソとやってきて、パリへの国際電話の発信の仕方を教えてくれました。その姿を見て、ああ、ご主人の方が私よりも一枚も二枚も上手だったのだと悟りました。
帰国後
日本に帰ってしばらくすると、列車で出逢ったパラシュート部隊の隊長さんから手紙が届きました。私も返事を書きました。するとまた手紙が来て私たちは数年間文通しました。丁寧な手書きの文字が今も忘れられません。
あの時は、たまたま出逢ったパラシュート部隊の方々が親切なおじいさんの隣に席を見つけてくださったので事なきを得ましたが、私は眠り込んでしまうという大失態を犯し、実際にはとても危ない列車の旅でした。
それだけでなく、初日空港からカサブランカへ向かう途中の真っ暗闇の中でのタクシー内での口論や、夜中のホテルの内扉ノック事件など色々ありましたが、身の危険を感じたことは実は一度もなく、多くの親切なモロッコ人に助けられた思い出深い旅でした。たくさんのことを考えさせられ、34年経っても忘れることのできない会話を色々な人と交わした旅でした。
近年ではテレビ番組でもモロッコの風景は時々目にするだけでなく、タジン鍋や食器、バブーシュと呼ばれるスリッパや、雑貨などを女性誌などでよく見かけます。旅行先も、砂漠ツアーや青い街で知られるシャウエンなど、魅力的な観光地がたくさん紹介されています。
再就職で10月から働き始めた会社は、入社していきなりブラックマンデーになってびっくりしましたが、その後15年ほど勤めました。休暇をたくさん取得できる会社だったので、休みを取っては大好きなフランスにせっせと通い、国内外もたくさん歩きました。そのような多くの旅の中でも、このモロッコの旅は格別なものでした。
◇ ◇ ◇
冒頭で触れた、1992年の冬にノルマンディに行った時にコンパートメントで一緒になったモロッコ人の男性も、列車を降りる時「良かったらうちに泊まりにこないか」と親切そうに誘ってくれたのでした。
<了>
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