183.仏語個人レッスン

本稿は、2020年12月12日に掲載した記事の再録です。

昭和57年(1982年)に私は大学を卒業して就職しました。憧れて入社した会社でしたが、残念ながらあからさまな男女差別が日常的にあって、このまま勤めていても仕方ないと思うようになりました。日々悶々とする中、これからの人生を思い描き、自分が一番やりたいことをしようと考え、子どもの頃から憧れ続けてきたフランスに行こうと決意しました。

そこで、会社の近くにある英会話教室におまけのようについているフランス語講座に週2回に通い始めるようになりました。この辺りのことはこれまでにも書きました。

043. 就職活動
054. 会社の男女差別
055. 腰掛け就職
061. フランス語学習

そして、フランス語を習い始めて2年ほど経ったある日、国際部門の役員に呼ばれました。私は社長室秘書課に勤務していたので、役員と話す機会は日常的にありましたが、それでも役員室に名指しで呼ばれるのは初めてのことで何事かと緊張しました。

ところが、その役員はニコニコとひとりの外国人を紹介してくれました。その人物は米国の提携先企業から最近日本に赴任したばかりの英国人で、日本の駐在オフィスは当面の間、私の勤務先の国際部門に間借りすることになったのだそうです。彼は片言の日本語がほんの少しだけ話せました。

話というのはここからで、その英国人の奥さんはフランス人で、英語は流暢に話せるけれど日本語はさっぱりで、来日したばかりで仕事もなく日々退屈して困っている、そんな英国人の悩みを聞いた国際部門の役員が私に「どうだね、彼女に個人レッスンを受けてみないかね」と勧めてくれたのです。

私は、役員が私がフランス語を学んでいることを知っていること自体に驚きましたが、役員は当初自分のバイリンガルの秘書にフランス語も習ってみないかと尋ねたところ、フランス語ならと私のことを推薦してくれたのだそうです。いつも外国人の来客の時に助けてもらったり、とっさの英会話を教えてもらったりしている役員の秘書はバイリンガルの上、秘書業務でも見習うべきところがたくさんあったので、私は公私に渡り相談事を持ち込んでいたのでした。

今通っているフランス語教室の先生は、心からお慕い申し上げ尊敬している先生でしたが、男性で、7〜8名ほどのグループレッスンでしたので、フランス女性のお宅を訪ねてマンツーマンでレッスンを受けるというのもなかなかいい機会だと思い、その場で是非にとお願いしました。

高いのか安いのかよくわからない、一回4,000円という授業料もその場で決めました。早速今度の土曜日からということで、英国人のご自宅の住所と駅からの簡単な地図をもらいました。役員が通訳という豪華な交渉でした。

当時の私の経済状況は、毎月およそ14万円の手取りの内、私はそれをふたつに分けて、7万円はフランス語の授業料とフランス行きの貯金、もう7万円は一日三食の食事代の他、書籍や雑誌、友人とのお茶代、映画・バレエ・観劇・旅行の代金、駐車場などの車の維持費などに充てていました。少ないボーナスも半分に分けました。洋服を買う余裕などまったくありませんでしたが、私は学生時代に百貨店でアルバイトをしていて、卒業祝いに割引でたくさんの通勤着を購入させてもらっていたので助かりました(066. 百貨店のバイト)。

◇ ◇ ◇

次の土曜日に、私は地図を片手に日比谷線の広尾駅に降り立ちました。地図にはスイス大使館のすぐ近くのマンションが描かれていて、そのマンション名からいって、どうみても大家さんは元お公家さんのようでした。到着してみると、そこに建っていたのは低層階の瀟洒なマンションでした。

階下のインターホンで連絡し、エレベーターで上がると、そこには三十歳くらいの女性が輝くような笑顔で迎えてくれました。まるで女優かファッションモデルなのかと思うほど、顔立ちもプロポーションも途方もなく美しい女性でした。

私は下書きをして、何度も口の中で練習してきた挨拶の言葉「お目にかかれて嬉しく思います。どうぞよろしくお願いします」と述べました。彼女は「私もよ。お会いできて嬉しいわ、さあどうぞ中へお入りください」と全身で歓迎の意を表し、室内へ招き入れてくれました。

部屋に足を踏み入れた時の驚きといったらどのように表現してよいのかわかりませんが、そこはとても東京とは思えない空間でした。ゆったりとした空間に食卓を兼ねたソファセットが置かれ、そのテーブルの上には金襴緞子(きんらんどんす)の帯がテーブルクロスの代わりに敷かれ、その上に銀の燭台が置かれていました。ソファの上に並べられた複数のクッションにも金襴緞子のカバーがかかっていました。

ソファセットの傍らには、江戸時代の商家にあるような箪笥や長持ちがインテリアとして置かれているかと思えば、大振りの花瓶に専門家が生けたのかと思うような生花が枝を拡げ、また部屋の片隅には指で弾くタイプの昔のパチンコ台がオブジェとして飾られているといった状態でした。吟味されたひとつひとつの品物が絶妙なバランスで配されていました。まるでどこかの美術館に迷いこんだようでした。

◇ ◇ ◇

彼女は(今後はマダムと呼ぶことにします)、私のことを心から歓迎してくれました。早速、これまた優雅なティーポットで紅茶を淹れてもてなしてくれました。

私たちは初めてでぎこちなくも、お互いに自己紹介をしました。マダムはパリで生まれ育ち、大学を卒業後ニューヨークで働いていた時に今のご主人と知り合って結婚し、この度思いがけず日本に来ることになったと話してくれました。

それまではマーケティングの仕事をしていたけれど、まだ仕事もどうやって探したらいいかわからないと言うことでした。私はマダムの職業が女優やファッションモデルでないことに驚きました。それほど美しい女性でした。

マダムは外国人向けにゆっくり話すということをしませんでした。私に向かってまるでフランス人に普通に話すような速度で語りかけました。少なくとも私にはそう思えました。

時々、速すぎて何を言っているのかわからないのでもっとゆっくり話してもらえないかと言うと、「あら、日本人の方がずっと速く話すのにおもしろいこというわね」とひとりで受けながら、あまり変わらない速度で繰り返してくれました。

ひとまず今後の授業の方針を立てようとしましたが、マダムはこれまで外国人に語学を教えた経験はなく、一応彼女なりに準備してくれていた教科書を2人で眺めたり、また私の持参した教室で使っているフランス語の教科書をめくったりしましたが、外国人がどのようにフランス語を学ぶのか知ってマダムは驚いたり感心したりしていました。

私は週に2度フランス語教室に通っていて文法はそちらで学習しているので、ここでは特別教科書を使わずに、様々な話題についてたくさん話をしたいと希望しました。普通の速度で語りかけてくれるのはとてもありがたいことでした。マダムも私の申し出に賛同してくれて、これから毎週土曜日、都合の悪い時には平日に振り替えながら、週に一度、雑談をしにいくことになりました。

◇ ◇ ◇

私たちの共通言語はフランス語だけでしたから、事務的なことで伝えたいことがあれば前もって辞書を引いて作文をすることになり、それも勉強になりました。当時は紙の辞書しかありませんでした。仏和と和仏の2冊の辞書をとにかくひたすら引きまくりました。特に和仏辞典は必携でした。

毎週、簡単な作文をしていくと添削をしてくれました。フランス人特有の文字を読むのは大変でしたが少しずつ慣れていきました。その週の「お題」を選ぶのも楽しい作業でした。フランス映画や演劇、政治問題、社会問題などキーワードをあらかじめ調べていってふたりであれこれとおしゃべりしました。

慣れてくると、私は来日したばかりのマダムに日本での生活を少しでも楽しんでもらいたいと、日本の風習や制度についても辞書を片手にせっせと作文して下準備しました。次第に私たちの個人レッスンは、どちらかといえば私がマダムに日本文化をレクチャーするような状態になっていきました。

マダムは熱心な生徒でした。時々質問も受けました。日本人のいう「遠慮」の意味がよくわからないから詳しく説明してほしいなどと言われこともありました。マダムの「遠慮」の発音は「enryo」、敢えてカタカナで表すと「オンヒョ」に近い発音でした。フランス語の発音に苦心していた私でしたが、フランス人の日本語の母音の発音を聴いて、逆にフランス語の母音の特徴がよくわかって勉強になりました。

マダムはお茶のお替わりを準備して戻ってくると、突然英語で話し出して、しばらくしてハッと気づき、あらいやだ、間違えちゃったわなどと言ってフランス語に戻るということが時たまありました。そういう時には私のフランス語はまだまだなのだと思い知らされました。実際流暢にはほど遠く、私が言葉に詰まったり単語を探している間も、マダムはイヤな顔をせずににこやかに辛抱強く待っていてくれました。

マダムは、私の文法上の間違いを直すことはなく、とにかくスピード重視で、どんどん会話を進めていきました。マダムがプロの語学教師ではなかったことは、マイナス面もあったでしょうが、私にとってはプラス面の方が多く感じられました。マダムとのやり取りで、とにかく絶対に通じさせるという気力を手に入れました。様々な言い換えをしたり表現を変えれば、大抵のことは通じるのだという自信がつきました。

最初の頃はスピードにのってどんどん話そうとすると、文法が滅茶苦茶になりがちで、時制が混乱してしまったり、条件法や接続法の時制などは常に現在形という有様でしたが、それでもたくさん話しているうちに、間違っていることが意識できるようになり、少しでも正確に話したいとゆっくりでも正確に話すことを選ぶようになっていきました。冠詞も前置詞も関係代名詞も最初は通じればそれでよしというスタンスでしたが、次第に正確さを求めるようになっていきました。

私は、これまでに何人ものフランス語の先生のもとで勉強しましたが、在日フランス人の多くは、日本の武道や文学・美術などに興味があり、日本や日本人に好意的でした。しかしマダムは夫の転勤で東洋のまったく知らない国に突然来て戸惑っている状態だったので、日本贔屓のところがなかったことも私にとってはプラスに働きました。

例えば1984年のロサンゼルス五輪の放送を観て、自転車や射撃や馬術などのフランス人に人気のある競技はまったく放送されず、柔道や体操ばっかりでつまらないとマダムは憤慨していました。当時はBS放送もなく、限られた地上波では日本人の活躍する競技しか放送されていませんでした。

役所や銀行などの手続きのわかりにくさについても不満を述べていました。広尾に住んでいても英語が通じない国で暮らすのは大変だとも嘆いていました。クレジットカードの汎用性の低さにも困っていました。私にフランスへ行くならVISAカードを持って行くようにと薦めてくれたのはマダムでした(053. 銀行とカード)。私にとっては何もかも初めての視点でした。

いわゆるエキスパットと呼ばれる駐在員の高級マンションを訪問する機会は、後年、少なからずありましたが、あのマダムのインテリアのセンスは比類ないものでした。夢のような空間で一所懸命予習をしてきたことを披露し、次回までの課題を抱えて帰るという経験は、フランス語教室で学んだことの実践の場としてだけでなく、純粋に今思い返しても心楽しいひとときでした。

◇ ◇ ◇

マダムの家に通い始めて一年程した頃、将来の話になりました。私がフランスで暮らしてみたいと思っているのだ言うと、マダムはそれなら私の伯母が地方都市で学生向けのアパートを経営しているから良ければ紹介すると言ってくれました。

聞くと、そこは前から私が行ってみたいと候補の一つにしていた街でした。「渡りに舟」とはこのこととばかりに、是非紹介していただきたいというと、あなたが行ったら伯母はきっと喜ぶと思うわと二つ返事ですぐに手紙を書いてくれました。あの頃は国際電話料金も高額だったので、一般の人の通信手段はもっぱら手紙でした。

返事もすぐに来て、歓迎するとのことでした。もし部屋が一杯でも、アパートの部屋が空くまでうちに下宿したら良いとも言ってくれました。映画「モーゼの十戒」のように、突然海が割れて進むべき道が示されたように感じました。

こうして私はマダムの伯母さんの家に下宿させてもらうことになり、3ヶ月後には伯母さんの経営するアパートに引越してフランス人学生達と共に共同生活を送ることになりました。

1985年夏のことでした。


<再録にあたって>
読み返し、改めて考えてみると、私がマダムの家に通い始めたのは、今からおよそ40年前のことでした。あの頃に比べると語学学習法もすっかり変わりました。好きな時にいつでもフランス語のニュースが聴けるようになり、SNSで外国人と繋がって様々なやり取りができるようになりました。それでも、あの頃の私は、語学を習うというよりも、マダムの家に行ってお喋りするのが楽しくてなりませんでした。


000.還暦子の目次へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?