055.腰掛け就職

1980年代初頭、私がまだ学生だった頃、いつものように友人の家に遊びに行ったら、短大を卒業して一足先に勤め始めていた友人は赤い腕章にアイロンをかけながら「明日は早起きしなくちゃならないのよ」とぼやいていました。

その赤い腕章には、「スト決行中」と白抜きの文字が印刷されていました。

その友人とは中学生からの仲良しで、私が初めて好きな人にチョコレートを渡すか渡さないかと悩む前から(026.47年前のバレンタインデー)、恋愛の悩み、進路の悩み、様々な悩みを共にしてきた友人でした。

彼女は、女子高から短大の英文科に進学して、商社に就職していました。生涯仕事をもって生きていきたいと願っていた私とは違う考え方でしたが、それでもどういうわけかウマが合い、今でも時折互いの家を行き来する仲です。

その時、彼女が困っていたのは「労働組合の活動」についてでした。彼女が就職した商社では、入社と同時に全社員が会社の労働組合に強制加入させられたそうで、入りたくないとか、途中で辞めるというのは許されないということでした。

その上、赤い腕章をつけて「時限ストライキ」もしなくてはならず、私が訪ねた日の翌日はいつもより朝早く出社して、始業前に組合の要求を唱える予定になっていました。

友人のぼやきの対象は早朝出社もさることながら、その組合の要求内容でした。

当時、多くの企業では性別によって仕事内容が決まっていて、例えば彼女の勤務先では、男性社員は営業、女性社員は営業事務となっているので、労働組合は男女問わず職種を選べるようにという要求を行うことになっていました。

ところが彼女自身はそんなことはまったく望んでいないというのです。わざわざ商社を選んだのは、特別な場合を除けば残業はなく、転勤を命じられることもない本社の営業事務の仕事が魅力的だったからだそうです。

9時5時で仕事を終え、同僚と銀座でお買い物をしたり、お茶やお酒を飲みに出かけたりするのも楽しみのひとつで、そのためにわざわざ電車で1時間以上もかかる都心の会社を選んだといっていました。

彼女は高校時代からおつきあいしている恋人がいて、彼が大学を卒業して数年働いて経済的な基盤を固めたら、すぐにでも結婚するつもりでしたから、この就職はいわゆる「結婚までの腰掛け就職」でした。

◇ ◇ ◇

当時は、高校や短大など学校を卒業後、数年「お茶汲みやコピー取り」などの補助的な仕事をして、少し社会を経験してから結婚して家庭に入ることが広く女性に求められていました。

それどころか企業の多くは、自社の男性社員のお嫁さん候補とするために、女性を採用していたといっても過言ではありませんでした。

結婚式に出てみたら、わずかな学生時代の友人と親戚を除けば、お仲人さんを始め、新郎側も新婦側も参列者は同じ会社の人ばかりというのは珍しいことではありませんでした。職場の上司も先輩や部下もみんな顔見知りで、さらに社宅で新婚生活なんていうこともありました。

そうすれば大企業から中小企業まで家族的雰囲気の中で、職場結婚をした妻は夫の会社の内部事情もわかっているので少々の無理も聞いてもらえ、妻の内助の功も求め易いというのが当時の社会に漂っていた空気でした。

私が新卒で勤めた会社にも、友人の勤めていた会社にも「寿退社」という制度がありました。定年退職以外で退職すると、退職金は80%程度しか支給されないのが通常でしたが、結婚を理由に退職すれば定年退職と同じように満額の退職金が支給されるというのが寿退社制度でした。退職金とは別に結婚祝い金を女性社員だけに支給する会社も数多くありました。

つまり「結婚と同時に辞めて家庭に入って欲しい」という企業の要望そのものの制度でした。しかし、これは企業の要望であると同時に、若い女性の要望でもあり、若い男性の要望でもあり、さらに言えば親世代の要望でもありました。つまり当時の社会の要望だったのです。

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NHKが1973年から5年おきに行ってきた調査「日本人の意識」というのは(「043.就職活動」でも触れましたが)、これまでに10回行われ、2018年の10回目が終わったところで、この45年間の日本人の意識の興味深い変化がビジュアルでわかるよう分析がなされました。

この中に「家庭と女性の職業」(18頁目)という質問事項がありますが、1973年(私が中学2年生の時)では、「家庭専念」が35%、「育児優先」が42%で、両方の回答を合わせると77%で、「両立=出産後も職業を持ち続けた方がよい」の回答の20%を四倍近くも上回っていました。

1978年(私が高校を卒業して大学に入学した年)でも、「家庭専念」は30%、「育児優先」が41%、合わせると71%で、「両立=出産後も職業を持ち続けた方がよい」の27%を遥かに上回っていました。

高校や、さらに短大/大学に進学する際には、将来どのような職業につきたいかなどの将来像をもとに選びますから、私が十代の頃の社会の要望はそのまま私たちの人生に大きな影響を与えました。

同じ設問を年代別に表した「家庭と女性の職業」(19頁目)を見ると、多少のデコボコはあっても年齢での違いはあまりなく、時代での変化が大きいことがわかります。私が十代、二十代の頃(グラフでは紫や青色のライン)は若者からお年寄りまでほぼ全世代で「女性は結婚あるいは出産したら家庭へ」という考えを持っていたことがわかります。

結婚と同時に離職して家庭に入るという考え方は、社会の制度の中にも様々な形で根付いていて、前述した「寿退社」だけでなく、結婚退職が制度化されている会社も少なくありませんでした。結婚と同時に退職が義務付けられているという制度です。

昭和41年(1966年)、採用の際「結婚又は35歳に達した時は退職する」旨の念書を女性社員に提出させていた会社「住友セメント」が、結婚しても退職を申し出なかった女性社員を解雇したという事件がありました。この時は女性が裁判に訴え、その念書の有効性が争われ、原告勝訴となりました。

住友セメント事件の判決理由にもある「性別による差別待遇の禁止」や「結婚の自由の保証」は、いずれも民法第90条「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする」(改正前はカタカナ、句読点なし)に違反しその効力を生じないとされましたが、しかし、同じような事件はその後も繰り返し裁判で争われました。

1990年代後半になって私が採用する側になった時でさえ、応募者に転職の理由を尋ねると、「現在勤めている銀行では、女性は32歳が定年なので転職しなくてはならないのです」と答えた女性がいました。男女雇用機会均等法施行後でさえそんな有様でした。

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昭和58年(1983年)(私が新卒で就職して2年目の年)、当時の労働省婦人少年局長の赤松良子氏は男女平等法の制定のために日々奔走していましたが、その二十年後の2003年に当時を振り返って、その頃の日経連の反対について著書の中で次のように語っています。

 1983年の夏が終わり、秋風が吹き出した頃、私たちにとって大変なニュースが飛び込んできた。日経連が男女平等法の制定に反対声明を出す動きがあるというのである。(中略)
 日経連では、加盟企業や地方組織、各県の経営者協会などから意見を聞いて対応すべしということになり、アンケートを出したところ、法制化に反対という意見が多かったという。当時の経営者のかなり多くが「平均勤続年数は男女間で明らかな差がある。男子労働者は生涯同じ企業で働くが女子はそうではない。その違いを基に企業の賃金体系、労務管理方法を組み立てている。男子は基幹労働、女子は補助労働を原則として日本の(世界に冠たる)終身雇用制度が維持されている。これを変えることは望ましくない。また男女平等に女性の待遇をあげれば人件費があがり、企業の競争力が低下する。一方女子労働者は勤労意識が低く、労働保護法規に甘えている。すべからく女子保護規定をなくすことが先決である」等々と考えており、他の先進国がどうあれ、わが国の雇用慣行や意識を変えるべきではないとの主張も少なくなかった。

赤松良子著『均等法をつくる』勁草書房(2003)p.69より(太字引用者)

しかし、このような社会情勢の中でも、赤松良子氏は幾多の苦難に挫けることなく、遂に、昭和60年(1985年)5月17日、衆議院本会議で男女雇用機会均等法を成立させました。長きに渡って、国論を二分した法律の成立でした。

そしてこの法律は翌年1986年4月1日に施行されました。しかし1989年に毎日新聞社から発行された『昭和史全記録』の1986年4月1日の箇所には、たった一文、次のように書かれています。

男性だけだった深夜のタクシー乗務が、男女雇用機会均等法で女性にも認められ、女性ドライバーの深夜タクシーが東京や埼玉県で走る。

男女雇用機会均等法施行日の紹介がこのような一文だとは、これは先の日経連の「一方女子労働者は勤労意識が低く、労働保護法規に甘えている。すべからく女子保護規定をなくすことが先決である」を受けての文章なのかと皮肉のひとつもいいたくなります。女性ドライバーによる深夜タクシーは、それまで女性を時間外・休日労働・深夜業から守ってきた規制の撤廃を象徴していました。

ある意味、1989年当時の男女雇用機会均等法への大手新聞社の意識レベルがわかる貴重な「昭和史の記録」です。

しかしながら、記念すべき男女雇用機会均等法施行をたった一文、女性ドライバーの深夜タクシーについてだけでまとめたというのは、当時の社会の受け止め方を見事に伝えているとも言えました。

◇ ◇ ◇

私の友人は彼女の希望通り、商社を2年ほどで退職し、その後地元の塾の講師を数年勤め、高校時代からお付き合いをしていた恋人と結婚式を挙げました。

その後も私たちは、違う人生を歩みながらも長く交流していきました。彼女が不妊に悩んでいた時、同じ「ふにん」でも私は海外赴任について悩んでいて、ふたりで互いの悩みを打ち明け合い、ただ聞いてもらっているだけでお互い自分の中に道を見出していくような関係になっていきました。

その後、彼女は子宝に恵まれ、子育てに追われる日々を過ごし、その子どもたちも成人していきました。高校時代からの長いおつきあいのご主人とは今も仲良く暮らしています。彼は会社を定年退職しましたが、彼女はパートタイムで働きながら趣味のスポーツで活躍しています。

彼女の生き方を青春時代からすぐそばで見続けながら、彼女は望み通りの人生を歩んでいったと私は感じてきました。このような生き方を選んだのは、もちろん彼女だけではありません。新卒で入った会社の二年後輩に「将来はどんな風になりたいの?」と質問したら、「お嫁さんになって、お天気のいい日にお布団をベランダにたくさん干すような生活をしたい」という答えが返ってきて絶句したことを覚えています。1984年のことでした。

あの頃、彼女らのような考え方の女性は、社会の主流であったことはまちがいないことでした。私のように生涯働いていきたいと思っている女性の方が例外的な存在でした。

私が中学2年生の時のNHKの「日本人の意識」の調査で、「家庭と女性の職業」(18頁目)で「両立=結婚後も職業を持ち続けた方が良い」を選んだ人はわずか20%に過ぎませんでしたが、2018年には60%とちょうど三倍になりました。

また、同じ調査の「理想の家庭」(20頁目)で「性役割分担」を選んだ人は1973年では39%でしたが、2018年には15%と半数以下の六割減となりました。反対に「家庭内協力」は21%から48%に二倍以上に増えています。

そういえば、彼女が商社に勤めていた時、「営業マンが暑い外から帰ってきたら冷たいおしぼりを出し、寒い日には熱いお茶を出したりして、彼らに喜ばれる今の仕事が性に合っている」と言っていたのが思い出されます。

赤松氏は、「均等法をつくる」のはしがきで、次のように述べています。

 本書の執筆中に、しばしば私を励ましてくれるフレーズがあった。それは「男女平等実現のための長い列に加わる」という言葉である。幸い、私の前には具体的に多くの優れた先輩たちの姿が見えた。私の時代よりもずっと苦難の多い時代に、迫害や中傷に屈せず闘ってこられた方々である。その方々の努力があったからこそ、私の時代に、女子差別撤廃条約ができ、男女雇用機会均等法を論議できるようになったことを忘れてはならないと思った。その列は、日本ばかりではない。ヨーロッパやアメリカ、果てはニュージーランド(世界ではじめて女性の参政権が実現した)からも続いているのだ。さらに幸いなことに、この列に加わって働こうという後輩たちが続いている。その人々はきっと私の代ではできなかったことを、仕上げてくれるに違いない。平和で平等な世界を実現するために。
赤松良子著『均等法をつくる』勁草書房(2003)p.iiiより(太字引用者)

時代というのは、一瞬、一瞬の積み重ねなのに、どうしてこんなに大きな変化をもたらすのだろうかと常々不思議に感じていますが、男女雇用機会均等法の成立は、「腰掛け就職」から「家庭と仕事の両立」へと女性の意識をも大きく動かすきっかけになりました。

「ニワトリが先か卵が先か」はわかりませんが、法律は会社の制度や人々の意識を確実に変えていきました。今では Google 検索に「腰掛け就職」と入力すると、検索結果の第一位には「就職の腰掛けとはどういう意味ですか?」というYahoo!知恵袋への質問が出てきます。


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