088.せっせっせと広瀬中佐

子どもの頃よく遊んだ「せっせっせーのよいよいよい」に続く歌詞は、「夏も近づく八十八夜」「みかんの花が咲いている」「おちゃら、おちゃらか、おちゃらかほい」「お寺の和尚さんがかぼちゃの種を蒔きました」など様々ありました。

手遊び唄には、ほかにも「ずいずいずっころばし」もあったし、みんなで手をつないで歌う「かごめかごめ」や「はないちもんめ」、それに「あんたがたどこさ」「とうりゃんせ」など、どこか怖いような唄もありました。

これらの手遊び唄のほとんどは、歌詞の意味を考えずに丸暗記で歌っていたものでした。たくさんある唄の中、私はある時突然その意味を知って驚いた手遊び唄がありました。

それは、祖母と一緒に遊んでいた次の唄です。

とどろくつつおと とびくるだんがん
あらなみ あらう でっきのうえで
やみをつらぬく ちゅうさのさけび
すぎのはいずこ すぎのはいずや

◇ ◇ ◇

この歌の意味を唐突に知ったのは、三十代の中頃に司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでいる時のことでした。この小説は、のちにNHKでドラマ化もされたので多くの方がご存知のことと思いますが、明治維新後、近代国家として歩み出し日露戦争に勝利する勃興期の明治日本を描いたものです。

日露戦争が始まり、旅順港閉塞作戦の次の箇所を読んでいた時、突然、祖母と「せっせっせ」で遊んでいた歌が脳裏に響き渡りました。

 有馬良橘の一番船は前回と同様、探照燈にあてられつづけて目がくらみ、ふたたび港口がどこにあるかという方向をうしなった。
 港口からみればやや右へ舵をとりすぎ、黄金山下の海岸にちかい水道へ入り、陸上に船首を向けて投錨し、爆沈した。
 それを二番船福井丸からみていた広瀬武夫は、もうそこが港口だとおもった。操船しつつその千代丸の左側に出、錨を投じようとした。そのときロシアの駆逐艦がちかづき、魚雷を発射した。それが船首に命中し、大爆発を起こして船底が裂け、たちまち浸水し、沈没しはじめた。
 が、脱出作業は十分間にあった。予定のようにボートがおろされた。作業終了とともに全員が後甲板に集合することになっていた。みな集合した。同行した大機関士栗田富太郎の後日譚では、広瀬が各現場を見とどけてもっともあとからやってきて、例の活発な、ややかん走った声で、
「オイオイ、みなあつまったか」
 と言い、番号をとなえてみろ、といった。すでに短艇の中にも人がいる。そこから番号をとなえると、杉野上等兵曹だけいなかった。杉野は前甲板で働いていたはずだった。
 広瀬は甲板上にいた兵員とともに上甲板をかけまわり、杉野、杉野、と呼ばわってまわったが大小の砲弾がまわりに炸裂し、探照燈がそのあたりを照らし、その凄惨さはこの世のものではない。
 みな後甲板にもどってきた。ふたたび、さがした。広瀬が一人々々にきいてみると、たれも作業中杉野の姿をみた者がない。ただひとり飯牟礼(いいむれ)仲之進という一等兵曹が、
「杉野上等兵曹はおそらく敵の水雷(魚雷)が命中したとき、舷外に飛ばされたのではないでしょうか」
と、いった。が、それは想像である。
 広瀬は、三度目の捜索に出た。ひとり前甲板の方に駆けてゆき、杉野、杉野、とよばわっていく。その声が、栗田大機関士の耳に遠ざかって行ってひどく心細かった、という。
 広瀬は、なかなかもどってこなかった。このとき船底までさがしたらしい。
  やっともどってきたとき、足もとに水が浸ってきた。沈没です、と栗田がたまりかねていった。
 広瀬はやむなく杉野をあきらめ、爆破用意を命じ、全員ボートに移った。爆破用の電䌫(でんらん)はながくのばしてあって、ボートまでとりこんである。ボートは本船から離れ、四、五艇身も離れたころ、広瀬みずからがスイッチを押した。船の後部が、みごとに爆発した。
 あとはボートをこぎつづけるのみである。広瀬はオーバーの上に引廻しを羽織り、ボートの右舷最後部にすわって、ともすれば恐怖で体がかたくなろうとする隊員をはげまし、
  「みな、おれの顔をみておれ。見ながら漕ぐんだ」
  と、言ったりした。探照燈が、このボートをとらえつづけていた。砲弾から小銃弾までがまわりに落下し、海は煮えるようであった。
  そのとき、広瀬が消えた。巨砲の砲弾が飛びぬけたとき、広瀬ごともって行ってしまったらしい。そのとなりにすわって舵をとっていた飯牟礼ですら気づかなかったほどであった。

『坂の上の雲』司馬遼太郎著 文藝春秋より引用

そして、「ひらがな」の歌が「漢字」の歌に変換され、意味を持ったのです。

轟く砲音 飛び来る弾丸
荒波洗う デッキの上で
闇を貫く中佐の叫び
杉野は何処 杉野は居ずや

これまで「ずいずいずっころばし」と同じように、音だけで記憶されていた歌に、意味が付与された瞬間でした。思わず本を伏せ、大きく肩で息をしました。この歌は、一体なんなのだろうと思いました。

◇ ◇ ◇

日露戦争は明治37年(1904年)2月から翌年明治38年(1905)年9月にかけて、当時の大日本帝国と帝政ロシアとの間で起きた戦争です。朝鮮半島と満州の権益を争い、日露双方それぞれ8万人以上の戦没者を出し、最終的には米国の斡旋によるポーツマス条約の締結で講和しました。

日露戦争の主戦場となる満州には、日本から物資を海上輸送によって補給する必要がありました。その上、喜望峰を回ってくる世界最強と言われるバルチック艦隊と、極東に位置する太平洋艦隊が合同しては不利になると考え、東郷平八郎率いる連合艦隊は、あらかじめ安全な旅順湾内に留まる太平洋艦隊を、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖してしまおうという作戦をとります。

これを旅順港閉塞作戦といい、1904年2月18日の第一次作戦、3月27日未明の第二次作戦、5月2日夜の第三次作戦と三度に渡って作戦を遂行しますが、いずれもうまくはいきませんでした。

私が読んでいた箇所は、旅順港閉塞作戦の第二次作戦の場面です。

この第二次作戦の際、閉塞船「福井丸」を指揮したのが広瀬武夫少佐で、この戦いで戦死し中佐となり、「軍神」として神格化されました。

この箇所を読んだあと色々と調べてみたら、明治43年(1910年)には広瀬武夫海軍中佐と杉野孫七兵曹長の二人の像が神田と御茶ノ水の間の旧万世橋駅前に建立され、この銅像は戦前の東京名所のひとつとなっていたようです。私が祖母とのせっせっせで、口ずさみながら遊んだ歌は「広瀬中佐」という題名の文部省唱歌だということもわかりました(Youtubeはこちら)。

◇ ◇ ◇

母方の祖母と遊ぶ時は、「せっせっせーのよいよいよい」といういつものセリフとは違って「せっせっせー、ぱらりとせ」というのでした。祖母は「ぱらりとせ」という時、ちょっと小首を傾げました。祖母は小さな私から見ても愛らしい女性でした。

この唄にどのような意味があるのか知らずに歌っていたのは、まだ小学校に上がったか上がる前かという幼い頃で、昭和40年(1965年)頃、1964年の東京オリンピックの前後のことだったと思います。当時、明治30年(1898年)生まれの祖母は大体今の私くらい、還暦を少し過ぎた頃だったと思います。

この唄を歌うときは、「みかんの花が咲いている」という歌と同じように、向かい合ったふたりが、最初は右手の甲と甲を合わせながら腕を上げ、上でお互いの右手を打ち合わせ、次に左手の甲と甲を合わせながらまた左手同士を打ち合わせるという振付がついていました。

私は祖母との遊びが大好きで、「せっせっせ」「あやとり」「おはじき」そして「お手玉」などたくさん遊びを教えてもらいました。私にとってなにより平和で心優しい思い出です。

まさか、その祖母との思い出の歌が、日露戦争の闘いの真っ只中の歌だったとは思いもよらず、私にとっては大変な驚きでした。

年表を書くように年代を辿ってみれば、日露戦争が行われていた明治37-8年(1904-5年)は、明治30年(1897年)生まれの祖母は小学校の低学年でした。そういえば、昔なにかの話から日露戦争の話になった時、祖母は提灯行列をして戦勝を祝ったという話をしてくれたことがありました。

♬  ニッポン勝った、ニッポン勝った、ロッシャ負けた

こんな節付きの唄を大きな声で歌いながら、みんなで町を練り歩いたと話してくれたことを、ぼんやり思い出します。

文部省唱歌「広瀬中佐」が制定されたのは大正元年(1912年)12月ということなので、日露講和から7年後、祖母は15歳、今なら中学3年生の時です。当時は15歳の娘も「せっせっせ」をして遊んでいたのでしょうか。

◇ ◇ ◇

広瀬武夫という人物は、『坂の上の雲』では次のように紹介されています。

 風変りな男で、兵学校のころから柔道に熱中し、任官後もひまをみつけては東京の講道館にかよい、嘉納治五郎から直接の指導をうけていた。明治二十三年「海門」乗組の少尉候補生のころ講道館紅白大試合に出場し、黒帯五人をつづけさまに投げ六人目でやっとひきわけになったという講道館開設いらいはじめてという記録をたてた。
 この男も、独身主義者だった。
 「おれには嫁が多すぎてこまる」
  といっていた。かれのいう嫁とは、海軍と柔道と、もうひとつは漢詩だった。

『坂の上の雲』司馬遼太郎著 文藝春秋より引用

さらに、広瀬中佐には次のようなロマンスも伝えられています。

 広瀬のロシア駐在はながかった。足かけ六年におよび、その間、おおぜいのロシアの海軍武官につきあったが、広瀬はかれらのあいだでもっとも人気のある外国武官だった。海軍士官のあいだだけてなく、宮廷の婦人たちのあいだですら、広瀬は人気があり、そのなかで、当時ペテルブルクの貴族の娘のなかできっての美人といわれたアリアズナ・コヴァレフスカヤという娘に熱烈な求愛をうけたりした。が、独身主義者の広瀬は、ついにそれをうけることなく、帰任命令とともに露都を離れた。(中略)
 イルクーツクで横断の用意などをするため、一週間滞在した。この滞在中、ホテルから露都ペテルブルクにいるアリアズナ・コヴァレフスカヤあて最後の手紙を書き、「永遠にいとおしい御身の上に神の恩寵のあらんことを」という言葉で結んだ。(中略)
 広瀬は滞露中、プーシュキンの詩の幾篇かを漢詩に訳したり、ゴーゴリの「隊長ブーリバ」やアレクセイ・コンスタンチノウィッチ・トルストイの全集を読むことに熱中したことがある。日本人としては、ロシア文学をロシア語で読むことができたごく初期のひとびとの一人であろう。
 広瀬武夫は、生涯独身だった。上陸すると柔道ばかりしていて、呉や佐世保あたりで芸者あそびをしたというような形跡もない。ひょっとすると、三十七年の生涯でついに婦人を知ることはなかったようでもある。
 「広瀬は明るくて豪快な男で、しかも部下が可愛くてしかたがないという男でしたから、かれが乗る艦はみな晴れやかな空気になり、成績も大いにあがるというふうでした」  と、かれと兵学校の同期生の竹下勇次郎(のち勇・大将)はそのように広瀬を語っている。かれ自身、その信条から婦人にちかづかなかったにせよ、婦人からみればよほど好感のもてる男だったらしい。
  かれの露都駐在時代、かれの出入りした社交界でかれほど婦人たちからさわがれた日本人もない。大げさにいえば、明治後こんにちにいたるまで、広瀬ほどヨーロッパ婦人のあいだでいわゆるもてた男もいないかもしれない。
  とくに広瀬を一家のもっとも親しい友人として遇してくれた海軍少将コヴァレフスキー伯爵のむすめでアリアズナ・コヴァレフスカヤという美少女が広瀬をはげしく慕った。アリアズナは文学的教養の高いむすめで、その知性と美しさはロシア海軍の独身士官のあいだでの評判であったが、広瀬の五年ちかい滞在のあいだ、やがて彼女は広瀬以外の男性を考えることができなくなった。広瀬もついにはただならぬ気持になったことは、彼女との往復書簡でもうかがえる。彼女がロシア語で詩を書いて送り、広瀬がそれに対し、漢詩で返事をし、ロシア語の訳をつけたりした。この万葉の相聞歌のような往復書簡を比較文学の対象として研究されたのが前東京大学教授島田謹二氏で、「ロシヤにおける広瀬武夫」という名著がある。
  アリアズナとの恋は、広瀬の帰国でおわったが、広瀬は閉塞船報国丸で旅順の敵地におもむく日、その昼前、その船長室で彼女に対する最後の手紙を書いている。手紙は通信艇にさえわたせば、中立国を通していずれはペテルブルグへとどくのである。
 さらに露都での広瀬は、フォン・パヴロフ博士とその家族から愛されていたが、そのパヴロフ家に出入りしていたボリス・ヴィルキツキーという海軍兵学校を卒業したばかりの少尉候補生がいた。ヴィルキツキーは広瀬を兄のように慕い、
 「タケニイサン」
  という日本語をつかってつきまとっていたが、広瀬がいよいよ帰国するというとき、パヴロフ家の送別会の席上で、かれはこの青年と以下のような約束をした。 「ロシアと日本の上に、将来砲火をまじえるような不幸がくるかもしれない。そのときはたがいの祖国のために全力をあげて戦いぬきたいものだが、しかしわれわれの友情は友情として生涯大事にしたい。戦争になってもたがいの居場所をなんとか知らせ合おう」
  というものであった。

『坂の上の雲』司馬遼太郎著 文藝春秋より引用

もしも戦争などなければアリアズナとの恋の行方は、などと思いを巡らしたくもなりますが、そもそも彼が軍人でなければロシアに駐在することもなかったので、歴史に「もし」は禁物なのでしょう。

広瀬の死はその後露都につたわり、かれの恋人だったアリアズナは、伯爵海軍少将の娘でありながら、その未来の夫である日本海軍の士官のために喪装をつけ、喪に服した。

『坂の上の雲』司馬遼太郎著 文藝春秋より引用

広瀬中佐もアリアズナも大変魅力的な人物として描かれていますが、祖母は広瀬中佐をどのように認識していたのでしょうか。「軍神」と祭り上げられていた最中に、プーシュキンやトルストイを読む姿や、敵国の女性との恋物語が伝えられていたとは考えにくく、祖母が広瀬中佐をどのように捉え、どのような思いであの唄を歌いながら孫娘と遊んでいたのかは今となってはわかりません。

◇ ◇ ◇

祖母との「せっせっせ」の思い出がなければ、旅順港閉塞作戦の描写は特別記憶に残ることもなく、私はそのまま読み過ごしてしまったことと思います。

今では第二次世界大戦の記憶も薄らいでいる中、日露戦争の記憶など、もうほんのわずかな人々にしか残っていないでしょう。広瀬武夫の恋も、戦勝記念の提灯行列も、祖母との手遊び唄も、時の流れと共に、次第に雲散霧消してしまっていくのだろうと思います。


000. 還暦子の目次へ

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?