177.百貨店のバイト

本稿は、2020年11月21日に掲載した記事の再録です

昭和54年(1979年)年明け、大学一年生の期末試験が終わった時、友人から週末あいていたらアルバイトのピンチヒッターをお願いできないだろうかと頼まれました。それは、百貨店の催事でゴルフウェアを販売するという仕事でした。

友人のお兄さんがゴルフウェアの会社を経営していて、催事の時には人を派遣して販売をしているのだけれど、予定していた人が急に都合がつかなくなったので代わりに行って欲しいということでした。授業料や生活費で万年金欠病の私は二つ返事で引き受けることにしました。

そのアルバイトで私は初めて「日本橋」というところへ行きました。東京の西の郊外に住んでいた私にとっては、新宿、渋谷の百貨店くらいしか行ったことがなくて、日本橋の百貨店へは一度も行ったことはありませんでした。その日は朝からアルバイトが終わったら、「お江戸日本橋」などあちこち散策しようと楽しみにしていました。

ところが、一日中立ちっぱなしで販売の仕事をするという経験は初めてだったので、午後三時くらいには足がガクガクしてしまい、散策どころか無事に帰宅できるか心もとないほどでした。翌日曜日も終日立ちっぱなしなのかと思うと目の前が暗くなりました。それでもヘトヘトになりながらも一晩寝たらなんとか回復し、翌日もかろうじて無事に勤め上げることができました。

その時はもう二度と販売の仕事はするまいと固く心に誓ったのですが、友人のお兄さんからこれまでになく数多くのゴルフウェアが売れたので、次に別の百貨店で催事がある時にはまた是非手伝って欲しいといわれ、「なんとかもおだてりゃ木に登る」状態で、その後結局、大学を卒業するまで週末には、百貨店での販売の仕事に携わることになりました。

◇ ◇ ◇

催事でのゴルフウェア販売というのは、春の大バーゲンとか、夏の大売り出しとか、そのような催事があるたびに、普段は売り場に出ていないウェアを売り場の一角で販売するというものでした。値札には黒字で7,900円と印刷してある文字を、赤の二重線で消して同じく赤で3,900円と訂正されていました。

初めて行った時は、半額以下とはなんてお買得だろうと思ったのですが、いつもいつも催事のたびに7,900円が3,900円に赤字で訂正されているので、これは元々3,900円が「正規の値段」だと気づき、百貨店のバーゲンセールというのはこんなからくりになっているのかと驚き、なんだか自分も詐欺商法に加担しているような気分になりました。

しかし、この3,900円の品物の品質はなかなか素晴らしく、デザインも良く、縫製もしっかりしていました。当時のゴルフウェアといえば、カラフルな傘のマークのアーノルドパーマー、黄色い熊(ゴールデンベア)のマークのジャック・ニクラウス、パイプのマークのトロイ、ペンギンのマークのマンシングなどが有名でしたが、いずれも一万円を超えるような高級品でした。私の販売していた3,900円のウェアはワンポイントこそついてはいませんでしたが、高級品に負けないくらいのよい品質でした。

実際に、高級なワンポイントを胸につけて買い物に来られたお客さんが、「え?! これはこんなに安いの?」などと驚きながら色違いの二枚を交互に胸にあて、「どっちが似合うかな」と聞かれ、「どちらもよくお似合いですが、紺色の方が引き締まって見えます」と答えてお買い上げいただいた翌日に、「家内にいい買い物をしたと言われたので、もう一枚買いに来たよ」などと二日続けて買いに来てくださるお客さんも何人かいらっしゃいました。

まとめて数枚買ってくださる方も少なくありませんでした。このようなお客さんが続くと、詐欺商法に加担しているという後ろめたさは次第になくなっていき、喜んでもらえる買い物をお手伝いできたことが嬉しくなっていきました。

初めて売り場に立った二日間は、とにかく足が痛かったことしか記憶にないのですが、だんだん慣れてくるうちに販売の仕事の楽しさがわかってきました。自分がされていやなこと、つまり商品を手に取るやいなや「いかがですか」と声をかけることは極力しないように心がけて、商品を畳んだり、並べ直したりと手を止めずにお客さんを見守り、そのお客さんが視線を上げて店員を探すようなそぶりをしたらすぐに「はい」と飛んでいけるようにしました。

今も昔も、私は人の顔や固有名詞を覚えるのがどうにも苦手なのですが、このアルバイトでは人の顔が覚えられないというのは致命的とまでは言わないものの、実に大きな欠点でした。当時の百貨店では売り場でお客さんからお金と品物を預かり、販売員の私がレジに持っていって会計と包装をして、元の売り場に戻るというのが一般的なやり方でした。

お釣りと包装した品物を持って元の売り場に戻ると、お客さんは他の商品を眺めながら少し離れたところに移動していることはよくありました。そんな時、私はどの方にお釣りと品物を渡してよいかわからなくなってしまい、「ゴルフウェアをお買い上げのお客様ぁ」と大きな声を張り上げながら、向こうから声をかけてもらうのを待ったことも二度や三度ではなく、本当に困りました。

人の顔の特徴を覚えることがどうしてもできなくて、例えば「刑事コロンボ」のように、ドラマの初めに犯人の顔が映って視聴者に種明しされるような番組でも、私はいつも誰が誰だかわかりませんでした。お金をお預かりする時に、相手の顔を失礼なほど見つめてもすぐにわからなくなってしまうのです。

苦肉の策として編み出した方法は、もう顔を覚えようと努力することは一切あきらめて、ネクタイの柄や、上着の色やデザイン、メガネの形などふたつかみっつの特徴に限定して覚えるとことにしました。この方法はなかなかうまくいきましたが、時々せっかく二日連続で来てくださったお客さんに「あ、君だ君、昨日はどうもありがとう」などと声をかけてもらっても、ネクタイや上着が変わっているので誰だかわからなくて反応できないこともありました。まったく困ったものでした。

◇ ◇ ◇

百貨店のアルバイトのことを思い出すたびに決まって思い起こすエピソードは、催事がある百貨店にいくと、毎回初対面の売り場の先輩方から「あなた、19歳くらい?」と聞かれることでした。「はたちくらい?」というのならわかるけど、「19歳」というピンポイントの年齢に「くらい」をつけて質問されるのが毎回おかしくてなりませんでした。

「はい、そうです。19歳です」と答えると、決まって「いいわね。若いって羨ましいわ」と言われるのでした。多分、5、6人の先輩方と同じやりとりがありました。私は毎回「若さが羨ましい」と言われていつも不思議な心持ちになりました。「美人で羨ましい」「スタイルが良くて羨ましい」「頭脳明晰で羨ましい」というのならわかるけれど(いずれも私には当てはまりませんが)、誰にでも平等に与えられる「若さが羨ましい」とはどういうことなのだろうかと思っていました。

しかし今、還暦を過ぎた私には、あの時の先輩方の気持ちがよくわかります。

どの百貨店へ行っても、先輩方は皆、慣れない私に親切に接してくださいました。この曲が流れたら雨が降ってきたという意味なので包装にビニールをかぶせるようにとか、トイレに行くときにはこういう言い回しをするのだとか、さあ、疲れたでしょうからゆっくり休憩していらっしゃいとか、社食でおすすめのメニューはこれだとか、本当に皆さん優しく温かく接してくれました。

それまで百貨店には客としてしか足を踏み入れたことがなかったので、従業員専用の空間の広さに心底驚かされました。社員食堂、休憩室、更衣室、それは本当にものすごく大きな空間でした。当時は多くの人が煙草を吸っていた時代だったので、休憩室は常に霞がかかっているようでした。また仕事が終わって従業員出口のところには、売れ残ったお惣菜が破格の値段で売りに出ていてお得なお買い物ができるのも驚きでした。

日本橋、銀座、新宿、渋谷、池袋と、あちこちの百貨店に出かけました。そしてせっせと3,900円のゴルフウェアを売りました。平日のオフコンバイトや図書係のアルバイトと違って、立ちっぱなしの仕事は私には大変でしたが、直接お客さんと触れ合える仕事は楽しいものでした。

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当時、百貨店の売り上げは右肩上がりでした。1974年には、百貨店の出店により小売業者の経営環境が悪化する社会的な問題を背景に、百貨店を規制する法律、いわゆる「大店法」が制定されましたが、規制などものともせず、百貨店は売上を伸ばしていきました。

私が新卒で就職した昭和57年(1982年)に「三越事件」が起きました。これは、週刊朝日の記事を発端に、贋作の販売や、業者への押し付け販売などの数々の問題が噴出して、社長の解任問題へと発展することになった事件です。

この時私が驚いたのは、テレビのインタビューに答える人々や新聞の投書欄に掲載される多くの声が、百貨店には絶大な信頼を寄せていたということでした。百貨店で売っているものは、伝統ある百貨店が品質保証してくれているので大丈夫だと信じている人々が多かったのです。

「あの老舗百貨店の信頼が失墜」というように報道されていました。私は、自分なりに工夫しながら販売していたつもりでしたが、そんな個人の努力など吹っ飛ぶほど、「百貨店で売られている」ということ自体に大きな意味があったようでした。

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昭和55年(1980年)の大学三年生の冬休みの直前、仲良しの友人と二人、地元の百貨店の前を通りかかった時、その百貨店が年末大売り出しの販売員を募集している貼り紙を見つけました。常々私がゴルフウェア販売が楽しいと話していたので、友人と「二人でやろうか」と早速応募して、年末は駅前の特設会場で折りたたみ机を前に地元の特産品など終日声を張り上げて販売しました。

ゴルフウェアとはまったく要領は違いましたが、こちらも楽しい販売でした。お客さんとのやり取りはゴルフウェアの客層とは違って女性客が多く、商品の野菜などの料理の仕方を逆に教わることも多く、とても為になりました。「好きこそものの上手なれ」ではありませんが、私は販売の仕事が好きだったので、その様子を見ていた社員の方から「よかったら都合のいい週末に、百貨店の売り場でアルバイトをしませんか」と誘われました。

日本橋や銀座の百貨店へは通勤時間がかかるので、地元の百貨店で働くのも魅力的だと思い、そのお話をお受けすることにしました。この時、配属されたのは、今日も尚、数多くのデパートに出店しているトラッド系の婦人服専門店でした。ゴルフウェアの販売も並行して行いましたが。少しずつ地元の百貨店の比重を高めていくようにしました。

ゴルフウェアの販売で自分なりに考えた接客方法はここでも生き、人の顔を覚えられない欠点をどうにか補いながら、好きな販売の仕事を楽しんでいました。「来たいときだけ来て働いていいよ」と言ってもらえたのはなによりの有難い言葉でした。ゼミの合宿やゴルフウェア販売の時には休ませてもらって、都合のいい時だけ働かせてもらいました。

◇ ◇ ◇

四年生の夏が過ぎ、当時は経団連などの協定で十月から就職活動を開始することと決まっていましたが、いよいよ就職活動開始という頃、社員の方から「就職活動用にスーツがいるだろうから、商品の中から好きなのを選べば六掛けで売ってあげるよ」と言われ、トラッド系の専門店で働いていたことに感謝しつつ、私の財力ではなかなか購入することの難しい素敵なスーツを六掛け、つまり定価の60%の金額で購入することができました。ほぼ半額に近い金額ですからとても有難いお話でした。

そして、(043)就職活動でも書いたように、このスーツのおかげなのか、不思議なご縁で就職も決まり、いよいよ一年余り続けた週末の販売員のアルバイトを辞めることになった時、就職したらきっと通勤着が必要になるだろうからと、就職祝いに好きな商品をすべて六掛けで購入しても良いといってくださいました。

そこで私はこれまでのアルバイト代をつぎ込んで、店頭の売り物の中から六掛けにして十万円以上、定価にすれば二十万円ほどの洋服を購入させてもらいました。当時は、雑誌JJの提唱するニュートラのファッションが流行っていたので、私は思いがけず流行のジャケットやスカートなどを数多く購入することができました。

就職してから退職するまでの三年余りの間、私はこの時購入した洋服を着回し続けて、ただの一枚の服も買わずに済みました。就職してから買ったのはストッキングだけでした。

あちこちの縁が不思議に繋がって、大学生活の週末の多くを百貨店の販売の仕事に携わり、最後に「わらしべ長者」になったような気分でした。今でもあの時の百貨店の担当者のご厚意に感謝の気持ちを持ち続けています。本当にありがたいことでした。


<再録にあたって>
百貨店の売上は、1991年(平成3年)をピークに右肩下がりが続いてきました。近年、特に地方都市からの撤退は著しく、百貨店が担ってきた役割を見直そうという動きもありますが、なかなか厳しい状況が続いています。私は学生時代に百貨店でアルバイトをしていたからなのか、今も百貨店が好きです。特に百貨店の各階にある喫茶室で過ごすひとときが大好きです。


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