213.地震の教訓

本稿は、2021年3月13日掲載した記事の再録です。

私が子どもの頃、毎年小学校の二学期が始まる9月1日には、学校の校庭で避難訓練が行われました。1923年(大正12年)の関東大震災が起きた日だからでした。

先生や大人たちが何より強調したのは「地震が起きたらまず火を消せ」ということでした。関東大震災は、午前11時58分、ちょうどお昼ご飯の支度の時間に当たっており、当時は薪や七輪で火を熾していたため、下町を中心とした東京は火の海となり、多くの焼死者を出したと言われてきました。

墨田区本所の陸軍の被服廠跡(ひふくしょうあと)に巻き起こった「火災旋風」の衝撃は凄まじいもので、阿鼻叫喚の地獄絵さながら火焔が人々を焼き尽くしたとあります。私は吉村昭著『関東大震災』を読み、その戦慄を新たにした覚えがあります。関東大震災の死者は10万5千人といわれています。地震そのものよりも火災による死者が圧倒的でした。

私たち小学生は「地震が来たら?」と聞かれると、自動的に「すぐに火を消せ」と答えられるくらい訓練されました。1854〜5年の安政の大地震、1923年の関東大震災と、50年から70年周期で地震はやってくるのだから、もうそろそろ次の大地震がやってくるぞと校庭で消化器を使っての火消し訓練もありました。

中学生の1973年には、関東大震災からちょうど五十年目に当たるということもあって、小松左京の『日本沈没』がベストセラーになって、映画化もされました。本当にいつ地震がくるのかと日本中が待ち構えているような状況でした。

この頃になって、ようやく火を消す前に机の下に身を隠して、身の安全を確保することが強調され始めました。

◇ ◇ ◇

寺田寅彦の「天災は忘れた頃にやって来る」の言葉通り、それから二十数年が経った1995年1月17日の朝、テレビのスイッチを入れたら高速道路が横倒しになっていました。ヘルメットをかぶったアナウンサーが関西に大地震が起きたことを伝えていました。

時間が経つにつれてヘリコプターの映像が映し出され、画面の中央に何本もの煙の柱が立っていました。前方の高速道路が崩落し、前輪が宙に浮いたまま奇跡的に道路上に踏みとどまったバスが大写しになりました。他の地域に少し遅れて、神戸が震度7だったと伝えられました。

出社してからは、大阪支社の社員との連絡が取れず、同僚の淡路島出身の社員もご両親と連絡が取れず、その日はみんな仕事など手につかず終日次々に変化するテレビ画面に釘づけになっていました。

途方もない大震災でした。当時繰り返し放映されたNHK神戸支局内の映像を見ると、いきなり家具が倒れ、まるでカクテルを作るシェーカーの中身のように上下左右に振り回され、机の下に身を隠す余裕などないのがよくわかりました。

翌日からは、どこの顧客へ行っても職場のテレビがつけっぱなしになっていて、戦場のような災害現場での捜索活動が音を消したテレビ画面に映し出されていました。心配のあまり多くの人は仕事が手につかない様子でした。

全国から消防、警察、自衛隊の他、大勢のボランティアが神戸へ向かいました。外国からもレスキュー隊が駆けつけてくれました。倒壊した建物からなんとか生存者を助け出そうとしていました。

それから数年が経ち、家が半壊したり、体育館でしばらく寝泊まりしていた大阪支社の同僚たちと共に出張先で「あの時は本当に大変だったね」と語り合ったことがありました。もっとも被害が少なかった同僚でも、停電や断水でしばらくは不自由な生活を経験していました。

彼女たちと話していて、私が「子どもの頃から『地震が来たらすぐに火を消せ』と散々言われてきたけれど、火を消す余裕なんてまったくなかったね」というと、大阪支社のひとりが「うちらが子どもの頃から散々聞かされてきたのは、『関西には地震は来んから安心しとき』やったわ」と軽やかな大阪弁で言うと、笑いが弾けました。

そういえば、文豪・谷崎潤一郎も関東大震災のあと、地震恐怖症だからと関西に、それも神戸市東灘区に移住したことを思い出しました。

阪神・淡路大震災の教訓として、我が家でも家具を固定したり、釘が打てない箇所ではつっぱり棒などで家具が動かないように工夫しました。非常用持ち出し袋を準備したりもしました。レトルト食品やスパゲティやお餅、水や卓上コンロなども買い込みました。しかし食品はすぐに賞味期限が切れ、最初のうちはまめに補充していた非常用品も、次第に補充がおざなりになっていきました。

それでも日々、お風呂には水を溜めておくようにしていたし、バッテリーやラジオ、災害用トイレを準備したり、水や食料などは賞味期限が過ぎたものは取り替えつつ、2週間は籠城できるようにと準備してきました。

◇ ◇ ◇

2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。あの日私は仕事が休みでたまたまひとりで、その頃住んでいた東京の西の郊外の自宅にいました。地震が起きてすぐに私はオーディオセットの入っている背の高いラックを両手で押さえました。CDプレーヤーやスピーカー、それに買い貯めてきたCDやDVDなどがガラス扉から飛び出してきては大変だと思ったからです。

家の揺れはおさまるどころかどんどんひどくなっていき、押さえているラックの隣にある本棚が大きな音を立て始めました。本棚は奥と手前に二重に本が置ける構造でしたが、手前の本の入った可動式のラックが、本を入れたまま次々に落下していき、物凄い音を立てて床に本をぶち撒けました。

可動式のラックは全部で8つあり、上の段の4つすべてが落下しました。それでも本棚の本体そのものはつっぱり棒のおかげでなんとか持ち堪えていました。すると、それらの本棚と直角に置いてあった別の本棚が、揺れの向きなのかつっぱり棒も振り切って音を立てて倒れ込み、中の本がすべて床にばら撒かれました。

しかし揺れは一向におさまる気配がなく、これ以上揺れが激しくなれば、オーディオラック自体が崩壊して、ガラス扉が割れて怪我をしてしまうかもしれない、もう手を離して屋外へ逃げようかと思った時、ようやく揺れはおさまりました。

冷蔵庫も洗濯機も50センチ以上動いていました。足の踏み場もないほど本が散らばっているので、本を集めようと屈んだ途端に大きな余震がきて、慌てて再びオーディオラックを手で押さえました。

やがて揺れはおさまり、テレビのスイッチをつけました。広範囲で非常に大きい地震が発生しているようでした。東京は震度5+と表示されていました。しばらくすると大津波警報が発令され、東北地方の太平洋側の海岸線がピンク色の点滅を始めました。

私の家の周囲では水道管が破裂して、高台であるにも関わらず庭の芝生が一面湖のようになりました。玄関先の地面にも亀裂が入りました。家族とも連絡がつきませんでした。しかし、こんなことはかすり傷ほどでもないことが次第にわかってきました。

まもなくあの恐ろしい津波が襲いかかりました。

翌日には原子力発電所が爆発しました。

◇ ◇ ◇

「地震が来たらすぐに火を消せ」「机の下に身を隠せ」「家具を固定せよ」「水や食料を備蓄せよ」などの教訓は、巨大な津波と原発事故を前にしては役に立ちませんでした。

2004年の新潟県中越沖地震では、本震発生後2時間の間に3回の震度6(弱が1回、強が2回)が起き、2016年の熊本の地震では、二晩連続で震度7の地震に襲われました。この時も過去の教訓を生かす時間的余裕はなかったといいます。

私はもう還暦を過ぎていますが、毎回大きな地震があるたびに新たな教訓を得ます。しかしそれと同時に過去の教訓に無力さを感じてきました。人間の一生で得られる教訓など、大自然のサイクルの前にあってはほとんど役に立たないのだと思います。

それでも尚、過去の教訓に耳を傾けようとするのはなぜかと考えた時、それは、教訓というのは、そもそも被災された方々が自分と同じつらい思いをせずにすむように、未だ被災していない者たちへの「思いやり」であり、それを受け止める我々はその思いやりに感謝し、被災者の苦しみ、悲しみ、そして多大なる尽力に思いを馳せるということだからだと思います。


<再録にあたって>
来週の9月1日で、関東大震災からちょうど100年になります。改めて、首都圏は一世紀に渡って地震の大きな被害を受けて来なかったのだと思いました。

最近は異常気象の影響で、国内外で水害や山火事などの災害が頻発しています。被災された方々に何ができるかを考えると同時に、もう一度自らの災害への備えを見直したいと思います。


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