139.マスクと注射とお医者さん

本稿は、2020年3月7日に掲載した記事の再録です。

街中の人々がマスクをしている昨今ですが、子どもの頃には紙でできたマスクを使い捨てにするなどとは思いも寄らないことでした。「花粉症」などという言葉は聞いたこともなく、マスクといえば、ガーゼでできていて、洗濯して繰り返し使ったものでした。

大分前のことですが、黒柳徹子が「ティッシュペーパーを箱からシュッシュッと取り出すのはすごく贅沢に思います。昔は一枚のちり紙を折りたたみながら大切に使ったものでした」と話していました。使い捨て文化は1970年代くらいから盛んになっていったように感じています。

また、健康な人が予防としてマスクをかけるという発想もなく、マスクをしている人は病気の人ということになっていました。


私は小学校に上がるまでは、よく熱を出していました。当時はお医者さんが往診してくれました。看護婦さんが一緒のこともありました。熱で赤い顔をして布団で寝ていると、かかりつけの先生は「おやおや、また熱が出ちゃったね」といいながら、黒い鞄の中から聴診器を出して私の胸の音を聴くと、次に胸に左の掌当てて、その上から右手の人差し指と中指を揃えてトントンと叩いてくれました。

大抵の場合は、解熱のための「すぐ治るお注射」をしてくれて、頓服薬を枕元に置いて、母が畳の上に用意した洗面器で手を洗い、手拭いで手を拭きながらこれからの注意点などを話してくれるのでした。私は「とんぷく」という言葉の響きが可愛いらしく思えてならず、「とんぷく」という名前の付いた薬は、ぷくぷくと泡の出るサイダーみたいに甘くておいしいといいなあ、などと熱に浮かされながら考えていました。


注射といえば忘れられないのが、予防注射です。小学校の予防接種の日は体育館にクラスごとに一列に並んで予防接種を受けました。

腕まくりをして列をつくっていると、前から順に看護婦さんが消毒液を含ませた一枚の脱脂綿で次々に腕を拭いていき、医師は注射器を上に向けると、ピュッと少しだけ液を出して、おもむろに腕に注射針を刺しました。

当時は、一本の注射器で5、6人の子どもを順番に打っていきました。平成生まれの医師や看護師さんが見たら卒倒しそうな光景です。

保健所で受けた記憶もあって、近所の子たちと連れ立って出かけ、「針は最初の人の方が痛くないらしいよ」と言われても、最初に受ける勇気のある子は少なくて、譲り合っている内に一番年下の弱虫が最後になって、痛い痛いと泣きだして、「だから最初にすれば良かったのに」などと言われて、余計に声を張り上げて泣いてしまうということもありました。

あれは何の予防注射だったのでしょう。日本脳炎、ジフテリア、ポリオ、破傷風、狂犬病、百日咳、チフス…などが思い浮かびますが、正確にはわかりません。BCGや種痘というのもありました。のちに集団予防接種によるB型肝炎の問題に発展しましたが、当時、子どもだった私たちにはそんな大問題が潜んでいるとは思い寄りませんでした。

学校には、顔見知りのかかりつけの先生も来てくれていました。でも、学校で会っても、先生はいつものように優しい言葉はかけてくれず、他人行儀なのでした。ちょっと秘密を共有しているような嬉しさと一抹の寂しさがありました。


私が不思議だったのは、お医者さんはなぜ風邪をひかないのかということでした。往診をしてもらっていたのは小さな頃で、小学生も3、4年生になると、熱がでると「病院」に行きました。現在ではクリニックとか医院と呼ぶようなところも、子どもの頃は「病院」とひとくくりに呼んでいました。

「病院」の待合室では、まず靴を脱いでスリッパに履き替えます。私はこの時必ず思い出す小噺がありました。お医者さんの玄関で「ここではきものをぬいでください」という貼り紙を見た人が、いきなり着物を脱ぎ始めたというものです。「ここで、はきものを」なのか「ここでは、きものを」なのかで意味が全然変わるので句読点は正確に打ちましょうと小学校1年生の授業で習ったのでした。

スリッパに履き替え待合室に入ると、それこそマスクをしてゴホゴホ咳をしている人や、赤い顔をしてぐったりしている人が大勢いました。もちろん私もそういう状態のひとりなのですが、母には「他の人の風邪がうつるといけないから、もっとこっちの隅の方に座りなさい」などとよく言われたものでした。

名前を呼ばれて診察室に入ると、先生は額のところに銀色の丸くて真ん中に穴のあいている光る円盤のようなものをつけて私を迎えてくれ、青や緑や茶色の容器に入っている銀色の平い棒で喉の奥を診てくれて、指を入れるところが縦に2個ついた脱脂綿をぐるぐる巻いた銀色の棒で、茶色いルゴール液を喉の奥にぐりぐりと塗ってくれました。そのたびにオエッとなって、涙が滲むのですが、その時「よし、もう大丈夫!」という先生の声がしました。

その後、聴診器で胸の音を聴き、回転椅子をぐるりと半回転させて、今度は背中の音を聴き、「すぐ治る注射」を打たれるというのが一般的な治療の流れでした。

私の知る限り、小学生の頃(1960年代後半)の頃に診ていただいたお医者さんでマスクをしていたお医者さんはただのひとりもいませんでした。私は待合室の隅にいないと他の人の風邪がうつるかもしれないのに、先生は毎日何十人も咳き込みながら説明する患者さんの口の中を診たりしているのに、なぜ病気がうつらないのだろうと心底不思議に思っていました。

帰りに先生の奥さんが受付で、白いガラスの棚の中から薬を出して持たせてくれました。曜日ごとに休診日の違うお医者さんが何軒かありました。その内の一軒は同級生のお父さんが先生でした。

子どもの頃虚弱だった私も中学、高校と丈夫になっていき、風邪程度ではお医者さんには行かない日々が続きました。たまにクリニックに行くことがあっても、普通に診察してもらって、特段何かを思うということはありませんでした。


ところが十年ほど前に実家に帰省していた時に、風邪をこじらせどうにもつらいので、懐かしの同級生の家へ診てもらいに行ったことがありました。行ってみると、クリニックはすっかり改築されていて、同級生のお父さんはもう引退されていて、代わりに同級生のお兄さんが診てくださいました。入り口にはもうスリッパはなく、先生の額には銀色の円盤もなく、青や緑の容器も、薬の入った白いガラスの戸棚もなくなっていました。

ドイツ語で書いているらしいと言われていた手書きのカルテは、コンピュータ画面にとって変わられ、注射を打たれることもなく、ルゴール液を塗られることもありませんでした。医師はマスクをかけていました。私は処方箋をもらって近所の薬局に向かいました。

半世紀の医療の進歩は今さら語るまでもないですが、こうして子どもの頃病気になった時のことを思い出すと、改めて実感することになりました。



<再録にあたって>
新たな感染症で世界中が混乱してからあっという間に2年が経ちました。この稿を書いた時点では、長期に渡って私たちの日常生活が様変わりしていくとは想像もしていませんでした。世界中の多くの人々が3回もワクチンを打ちました。

こうして2年前の過去を振り返ると、2年先の未来のことなどどうなっているのかわからないものだと感じています。


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