201.母の刺繍

先日、noteでテレサさんの「第3回 母の刺繍展」が開催されると知り、吉祥寺のギャラリーに伺いました。テレサさんのお母様は、現在93歳、半世紀にわたり欧風刺繍を続けてこられたそうです。その素晴らしい展覧会に伺い、大変感銘を受けました。

テレサさんのお母様は、「おんどり刺しゅう研究グループ」の一員として作品をお作りになり、銀座を中心に作品展をなさってこられた方で、雄鶏社の出版物にも作品が掲載されていたそうです。多くの作品が額装された状態で保管されていると知り、是非とも実際この目でそれらの作品を拝見したいと出かけて参りました。

私が伺った時ギャラリーは絶えず来場者で賑わっていて、テレサさんは様々な方々の質問に答えたり、初めて刺繍糸を持つ来場者のお子さんたちに刺繍の手ほどきをなさったりと大忙しでした。そんな中でも私にも丁寧に説明してくださいました。心より感謝しています。

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テレサさんのお母様の作品を拝見ているうちに、私の中で心が震えるほどの懐かしさが湧き上がってきました。実は現在90歳の私の母も、テレサさんのお母様の作品とは比べものにはなりませんが、刺繍の真似事をしていました。

母の場合は額装するような芸術作品などではなく、生活に根差した手作りの洋服に刺繍を施したり、幼稚園へ持って行く品々や、家の中の例えばトースターカバーなどに刺繍をしていました。

不思議なもので、テレサさんのお母様の作品、特にバラの花びらのステッチ(調べてみたらバリオンローズステッチというそうです)を見ていたら、あまりの懐かしさにあの頃の母が刺繍した品々が次々に目の前に現れてきたような気がしました。記憶のメカニズムとは一体どういうことなのかと我ながら驚きました。

テレサさんにお目にかかるのは展覧会当日が初めてで、お母様の作品を拝見するのも今回が初めてでしたが「とても懐かしく拝見しました」などどいう頓珍漢な感想を述べてしまったほどでした。

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私が小さな子どもの頃よく着ていた遊び着のひとつに、母の手作りのオーバーオールがありました。胸の大きなポケットにはNHKの「おかあさんといっしょ」に出てきたブーフーウーの三匹の子豚が刺繍されていました。母は若い頃から洋裁が大好きで、私たちの子ども服はほとんど母の手作りでした。母はせっせと洋服を作ってはそこに可愛らしい刺繍を施していました。

この稿を書こうと、改めてブーフーウーの画像を確認してみたら、確かに真ん中の子豚は、メキシカンハットをかぶっていたと心から懐しく思いました。そして三番目のウー(当時、声は黒柳徹子)はオーバーオール姿でした。私はこのブーフーウーが刺繍されたオーバーオールを着て、お砂場で砂のお団子を作ったり、砂にまみれて転がったりしていたのでした。

小学生の私が毎日のように着ていた母の手編みのガーデンにもアップリケと共に小花の刺繍がされていました。私はこのカーディガンを鉄棒に巻いて前周りをする時にはその上に膝を乗せグルグルと一緒に回っていました。頭に巻いて色んな「ごっこ遊び」をしたり、そのあたりにいた仔犬や仔猫もこのカーディガンでくるんで可愛がっていました。

5年生の時に初めて音楽会に連れて行ってもらい、憧れのピアニスト中村紘子さんに握手をしてもらったことがありました。その時に着ていた深緑色のワンピースの胸にも、大きな花束の刺繍がなされていました。花束を結んだ黄色いリボンが本物のリボンになっていたことも思い出しました。

今思うと、子どもの頃に身につけていたもののほとんどに、母の刺繍が施されていました。けれどもあの頃はそれがあまりにも当たり前すぎて、それらの普段着は写真にすら残っていません。ただただ私の記憶の中にしか存在していないものとなってしまいました。

テレサさんのお母様の作品を拝見していて驚いたのは、バラのステッチだけでなく、輪郭をかたどるステッチも、中を塗りつぶすようなステッチも、玉のようなステッチも、どのステッチを見ても、あ、このステッチはあのカーディガンの赤い花の部分にあったとか、これはあの洋服の葉っぱの部分に使われていたと、どのステッチにも見覚えがあって、自分が母のステッチを極めて細かいところまで記憶していたこと自体に驚いてしまいました。人間の記憶の層とはどのようになっているのでしょうか。

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母の洋裁や手芸にかける情熱は大変なもので、洋服なら父のオーバーコートも作っていたほどでした。そんな母の手作り品々の中で忘れられないものに、幼稚園の時の座布団がありました。

私の通っていた幼稚園では、家から座布団を持ってきて、それを椅子に敷くように指示されていました。時々お楽しみ会などがあると、園児はそれぞれ座布団をかかえて講堂に移動するのでした。

周りの子どもたちは、みんな鉄人28号などのマンガの主人公や可愛い女の子の絵がプリントされた市販の薄い座布団を持ってきていましたが、私の座布団は、黒光りする天鵞絨ビロードの座面いっぱいに赤やピンクのバラの花園が刺繍されていて、真ん中のバラのアーチの下には5センチくらいの小さな女の子が描かれていました。

おそらく母は、テレサさんのお母様などの作品を参考にしながら、雄鶏社の作品集などから刺繍の図案を抜き描きし、チャコペーパーで薄紙に写して、刺繍枠をはめて夜鍋しながらひと針ひと針刺繍したのだと思います。母が糸を二重取りにして、ピンと張った刺繍枠を手にしている姿が目に浮かびます。

今回テレサさんのお母様の展覧会でヨーロッパの庭園を刺繍なさった素晴らしい作品を目にして、ああ同じ香りがすると思いました。昭和30年代から40年代(1955-1974年)頃は、まだまだ欧州と日本との経済格差は大きく、ヨーロッパの庭園など刺繍の世界でしかお目にかかれませんでした。

ところが当の私は、そのバラの花園の座布団に座るたびに実は心を痛めていたのでした。なぜなら、アーチの下にいる女の子の上に座るのが可哀想でならなかったからです。ひよこのお饅頭を食べる時と同じように幼心が疼きました。

しかも、クリスマス会などがあると、その座布団を抱えて講堂まで行くのですが、必ず周囲の子どもたちに「凄いね、見せて」などと言われるのが恥ずかしくてなりませんでした。どうして母は周りの子のような普通のプリント生地の座布団にしてくれなかったのだろうと内心思っていました。

もうひとつ忘れられないのは、小学校の時のスクール水着の刺繍でした。なんの変哲もない紺色のスクール水着ですが、私の水着だけ肩から胸にかけて、白と黄色のステッチで美しい唐草模様が刺繍されていました。私は心の中で学校の水着にこんな刺繍をしてはいけないのではないかと思っていましたが、気がついた時には既に刺繍は施されていました。

学校で着たときに先生に注意されたらどうしようかと心配していましたが、特に注意されたり、クラスメイトに何か言われることもありませんでした。そのうちに平気になりましたが、子どもの頃にはこんなことが度々ありました。

そういえば少し脱線ですが、中学生の時に家庭科でパジャマを作るという課題がありました。家庭科というとなぜか母が張り切って私の課題をすべて横取りして仕上げていましたから、パジャマの時も母が勝手に自分で型紙を起こし、白と青のギンガムチェックの生地を買いに行き、胸にフリルとリボンのついたパジャマを作り上げました。

家庭科の課題に向かう母の暴走は私には止めようもなく、いつも母の気が済むまでハタで眺めているくらいしかできませんでしたが、私が触れることもなく完成してしまったパジャマを学校に持っていったら、大絶賛された挙句、市内の家庭科コンクールに出品が決まり、なんとそこで大賞に輝いてしまうという事件がありました。

ここはどうやって作ったのかなどという質問攻めにあって私はしろどもどろになり、身の置きどころがなく、顔を真っ赤にしてうつむくしかありませんでした。罪悪感にまみれた表彰式もどうにかやり過ごしました。

そんな母のもとで育ったせいで(?)、私の裁縫の腕前は、なんとかボタン付けができる程度で、ミシンも使えないし、裁縫はまったく不得手のまま還暦過ぎまできてしまいました。

そんなわけで私は母の刺繍に特に感謝することもなく、心のどこかで母の刺繍熱や洋裁熱は大目に見てあげなくてはいけないものだと自分自身に言い聞かせ、長いこと、母のために手作り服は我慢して着てあげているような気分でいました。しかし、今回テレサさんのお母様の刺繍展を拝見して、昔の記憶が怒涛のごとく押し寄せてきて、懐かしく有り難く、小さな娘のことを日夜思ってせっせと刺繍していた若い母が可愛らしく、いとおしく思えるようになりました。

テレサさんの note を拝見した時にどうしてもお母様の刺繍展に行ってみたいと思ったのは、深層心理でこのような気持ちに気づきたかったからなのかも知れません。今回の刺繍展は、数々の作品が素晴らしかったことは言うまでもありませんが、長年心の中で燻っていた母の刺繍熱への思いが霧散しました。テレサさんとお母様に、心より深く御礼申し上げます。

テレサさんのお母様の刺繍に興味のある方は、どうぞこちらのインスタグラムもご覧ください。



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