短編「耳かき」
風呂上りに彼の耳掃除をしてあげることが私のルーティーンだった。
彼は洗いたての子犬のような頭を私の膝に乗せ、満足そうなにんまり顔を私に向けて、耳掃除をお願いする。
はじめて耳かきをお願いしてきたのはいつだったっけ。いつも私を含めて、困っている人がいたらすぐに助けてくれるほど正義感に溢れ、頼りになる性格を持つ彼が、お風呂上りに
「あのさ、お願いがあるんだけど」
と少し頬を赤く染めながらもごもごと話し始め、どうしたの?と私が不思議そうに見つめていると、
「えっと、これで耳掃除してもらえないでしょうか・・・。」
とどういうわけか、敬語を用いて耳かきを差し出してきた。いつもの彼なら絶対に見せない表情と、仕草が可笑しくて私は「ぷっ」と吹き出してしまった。すると彼は悲壮感あふれる表情変化し、今にも涙を流しそうになったので私は焦ってすぐさま
「ごめんごめん。いいよやってあげる。それ頂戴」
と謝り、耳かきを受け取った。
「じゃあここに頭置いて」
と私は正座してポンと膝を叩き、彼のモサモサ頭を招くと、彼は赤ちゃんが笑う時のような純粋な笑顔を向けて横になり、私に頭を預けた。こんな一面が彼にあることに少し驚いたが、それを上回るかわいさからときめきが止まらず、にやにやしながら耳掃除をしてあげた。
それから風呂上りに彼の耳掃除をしてあげることが日課となり、日に日に上達していき、いつしか私も彼の耳を掃除をしてあげることが大好きになっていた。
それなのに、
もうお風呂にも入ったのに、
今日は私の膝に彼の頭が無い。
最初は本当に些細な事から始まった喧嘩がいつしか何倍にも膨れ上がり、もうしぼめることは不可能になっていた。
ソファーに座ってふと周りを見渡すと、彼と彼の荷物が無くなり、殺伐とした雰囲気に変わってしまった部屋にぞっとして、気持ちを紛らわすためにテレビをつける。それでも落ち着かず、何となくいつものように薬ケースに手をやると、そこには耳かきがあった。彼はこの耳かきを荷物に入れずに出て行ったらしい。
そっと手に取ってソファーに戻り、自分の耳を掃除する。
「そういえば一度もしてもらったことなかったっけ。」
私は溢れ出る涙を思うがままにし、自分にすら聞こえないぐらい小さな声そうで呟いた。