見出し画像

観る、聴く、感じる。

 相田みつをさんの言葉「うつくしいものを美しいと思えるあなたのこころがうつくしい」は、まさに“思えたら聴こえる”を彷彿させるものである。たとえば、歩いていて道端に花が咲いていることに気づき、その上で、華麗などと思うかどうかはその人の心次第であって、興味を持ったり、五感などで意識したりしていなければ、何も感じずに通り過ぎてしまうだろう。
 美しいものを美しいと素直に感じる感性は、人間観としては素敵なことではないか。料理番組で、美味しいものを作っているのに盛り付けるお皿がいまいちだと感じるときがある。一流であれば、お皿まで拘り抜くに違いない。茶道の世界なら、お茶を嗜むときは茶碗そのものも楽しむ。ワインなら、ソムリエは味を表現するときにさまざまな技法を使う。人間観というのは、ただお皿に盛りつけるだけのような技法を持っているのみでは足りなく、さまざまな経験によって味わいや深みを増すものである。花を知識として知っているだけでは、花の美しさを表現するにはあまりにも乏しい。だからこそ、何事もそのものを自分自身が経験したりすることが、感性を磨くには大切なのである。
 さて、禅林句集の中に「君看よや双眼の色 語らざれば憂いなきに似たり」という白隠禅師の言葉がある。“私の二つの眸を見て下さい。愁うることなど何一つないように見える。私は誰にも断腸の想いなど語りはしない。語り尽くせないほど愁いは深いからだ。しかし、同じく深い愁いを抱く者が看れば、私の心は分かるはず。目と目があうだけで一語も交えずともすでに志は通じている。愁いを抱くものならでは、この想いを同じくすることは出来ない。だから君よ、私の双眸の色をみてほしい”と説いた。
 私たちは兎角、正面からしか物事を見ないのだが、反対側や裏側から物事を見たり、俯瞰したりする眼をもつことは大切だろう。“観音菩薩”は、音を観ると書くが、不思議ではなかろうだろうか。音は本来聴くものだ。観音様は、ありのままのあり方を俯瞰した宇宙から観ているのだ。つまるところ、音は聴くものというように、一面だけで捉えるだけではいけないことを教えてくれる。やはり、見えないもの、聞こえないものを、観たり、聴いたり、そして五感的に感じたりすることによって、自分の人生を俯瞰した場所から意識することがこれからの時代では必要になる気がする。
 世の中のことを何でも知りたいという思いがあっても、自分が知り得るものには限界があるし、その情報自体はごく一部に過ぎない。たとえば、誰かが美味しいといったものを自分が食べても美味しいと感じられるかは分からない。五感というのはそもそも自分の中でしか起こっていない感覚。だからこそ、経験していく中で、あの人は今どう思っているのかという気持ちを汲み取ってあげられるのは人間としての素晴らしい能力だと思う。語られた言葉のみならず、目、表情、雰囲気などで感じ、推し量ることもできる。そのとき、汲み取ることを否定的なことではなく、楽しいことや、人の長所を汲み取るとか、こうしたら嬉しいと思ってくれるのではないかと汲み取るとか、優しいことに使おうと心がけたら、世の中からギスギスしたものが減るのではないかと思う。

2021.9.10

この記事が参加している募集

#オープン学級通信

5,685件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?