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利他のこころ

 天台宗の尼僧である瀬戸内寂聴さん(99歳)が永眠された。生前は色々あっただろうが、ありのままにすべてを受け入れて、多くの方の悩みを傾聴し、数多くの言葉を遺した。その中で、お子さんに「何のために生きるの」と聞かれたら、「誰かを幸せにするために生きるのよ」と答えてください、と語っているのは共感の至り。まさしく利他の精神である。ようするに、自分よりもまずは人を想うことを説いたのである。例えば、料理研究家である土井善晴さんが『料理と利他』で語っているように、料理は利他的である。お弁当を含め、食事を自分で作っている人は稀だと思う。親が作るとしたら子どものことを想っているのだから、利他である。広く言えば、会社は世界のことを想う。教員は生徒のことを想う。利己的であったら、つまり、自分のことしか考えていなかったら、世の中は成立しない。
 では、集合としてではなく、個人で捉えたら、果たして利他は成り立っているだろうか。自分中心で考えていないだろうか。つまり、自分だけよければいいという慢心の状態でないか、常々内省していくことは必要だと思う。仏陀の教えには「言葉を発するときには、気をつけなければならない。言葉は相手を癒すものにも、相手を傷つけるものにもなるのだから」とある。これは私自身もここ最近身に染みて感じていることなので、相手のことを蔑ろにしない精神を目指し続けたい。
 さて、先日開かれた読書会ではデヴィッド・ボーム著『ダイアローグ』を課題本として自問(自己対話)した。私は教員でありながら、小さい頃から対話が怖い。相手が何を考えているか気になって仕方がないからだ。だから、自分をさらけ出して話すことは殆どなかった。とはいえ、「さらけ出すような、本来の“自分”はどこに存在するのだろう」と哲学的なツッコミを入れてみる。目から鱗だったのは、我々は対話する際に「心地よい調整の状態」を選んでいるという。確かにその通りだな。自分で本当に言いたいことを語るのではなく、受け取り側の顔色を窺って喋る。だから、対話そのものは真に楽しいとは限らない。でも、議論(discussion)とは異なって勝ち負けが存在するわけではないから、“何か新しいものを創造し得る力”がある。まだ構想を練っている段階だが、来年度の自由選択科目『看護総論』という授業では「対話」を取り入れたい。コミュニケーションも大事だが、それ以上に“傾聴”することが対話には必要不可欠である。これぞ、利他。
 私たちの内側にあるもの(思考)をそのまま外側に出すことはできない。言葉にしたとしても、それは“似ているもの”が表現されたに過ぎない。科学者が考えている真理も、画家が描いている絵も全く同じ。外側に出てきたものがその人・事物のすべてを表しているのではない。我々は神ではないので、すべてを知り得ない。だからこそ、神様は我々に人に対して“耳を傾ける力”を授けた。周りに何も存在しなければ耳を傾ける必要ないが、さまざまなものと共生しているがゆえに、幸田露伴著『日ぐらし物語』にある一節「心耳を澄まして聴聞あれや」である。

♬M.M. の「哲学対話P4S」コーナー♬

第4回<どうして人は眠るのか。眠らなくても生きていけるのか。>
 ヒトは二足歩行するようになり、脳が肥大化しました。その進化の結果、脳がエネルギーを相当消費し疲弊してしまうため、休息させる必要が出てきたのです。因みに、マグロは泳ぎ続けないと死んでしまうため、ちょっとずつ寝ながら泳ぎます。また、イルカは片目ずつ閉じて半分ずつ脳を眠らせます。凄いですね。ようするに、脳を使っていれば休ませる必要があるので、それが「睡眠」という形になったのでしょう。そう考えると、植物などは“休む”ということはあるのでしょうか。
 狩猟採集時代では、夜中は肉食動物がおそらく大半眠っていたでしょうから、ヒトは安心して眠りにつけたに違いありません。そして夜は“暗い”(人間的観点として)が故に、眼が利かないから動物を追いかけるため走るのも不都合でしょうし、動物が棲み処に隠れていたら都合よく襲うことも儘なりません。だから、昼活動し、夜活動することをやめるのは当然でしょう。
 眠らない状態を続けると、動物は生命を維持できなくなると言われています。人間が不眠状態を続けた記録は約11日です。私は大学生のときに「確率論」での試験に向けて一度だけ徹夜をしたことがあります。たった一日ですが、試験を終えてからの精神状態はやばかったです。危険ですから徹夜は絶対にやめた方がいいです。一夜漬け、そして付け焼刃には何のメリットもありません。
 それから、つくづく阿呆だなと思いますが、大学生のとき寝るのも食べるのもお風呂に入るのも面倒くさいと思っていた時期がありました。それよりも数学の問題を解いていたかったですね。大学で学ぶ(解く)問題の質が高いので、友だちで集まり一題を解くこともざらでした。
 さて、教員になって2校目のとき、「危険物取扱者試験」を丙種から甲種までを順に、生徒と一緒に受験したことがあります。最後の関門である甲種はこの時期(11月)の受験でしたが、偶然にも朝早くに勝手に目が覚めてしまったので、朝勉強しました。因みに、起きようと意識していたわけではありません。高校のときですら朝勉強することはやったことがないのに…。高校生のときは夜11時に就寝、朝6時起床でした。脳をフル活動させるためにも、とにかく寝ることが大切だと思っていました(笑)
 危険物を取り扱える資格そのものは私には不用かもしれませんが、生徒と共に資格取得に向けて挑戦することに意味があります。そして、その延長で、同じく“国家資格”である「毒物劇物取扱者試験」も受験しました。これは冊子が分厚く、めっちゃ難しいです。いくら化学が好きであっても、心が折れそうになります。何年か前に、「ハングル能力検定試験5級」を受けたのも11月でした。また何かに挑戦してみたいですね。
 もう11月も終わりますが、暗いにもかかわらず、5時過ぎると目が覚めます。語弊はありますが、歳を重ねると、寝ることも疲れてしまうらしく、ずっと寝ていられなくなるらしいです。でも、その現象ではないと思っています。まだ早すぎます(笑)でも、人生の4分の1を睡眠時間に費やすのは、いくら昼間のいい活動を保証するためとはいえ、どうなのでしょうとは少し思いますね。今はやりたいことがたくさんあるので、寝る間も惜しんでやりたいのですが、11時前になると起きているのがきつくなり、お茶を啜りながらこっくりし始め、妻に叱られます。だから、起きているときについ効率よくやろうとしてしまいます。『ゾウの時間 ネズミの時間』によると、動物の寿命は心拍数と連関しているそうですが、寿命って不思議ですよね。

2021.11.19

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