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アメリカにクラシック音楽留学をする意味とはなんだったのか

こんにちは。今日は、日本の大学を出て、その後アメリカの大学院に入って思うこと、感じていることなどを紹介していきたいなと思います。今回のお話は、私の経験を踏まえた、クラシック音楽や大学の環境の話題がメインになります。(とはいっても、私はいわゆる音大卒ではないんですが)

前回、アメリカの文化について思うこと、生活編といった具合に記事を書いて、今回大学編ということで書くことを吟味し始めたのですが、カジュアルな大学でのカリキュラムや友人の話と、もう少しシリアスな、大学受験から今に至るまでを振り返っての話とでまとまりがつかなさそうなので、分けて書くことにしました。今回は"シリアス"な方です! :[

私の自己紹介などについては、こちらの記事を読んでください。


作曲家に人生で出会う確率

まずおそらく、音楽関係者以外のほとんどの方は、人生の中で作曲家と知り合うこと自体あまりないかと思いますが、その中でもアメリカにクラシック音楽留学している作曲家にバーなんかでばったり会う確率は、まず間違いなく生きていて0.1%未満でしょう。私自身、今アメリカにいますが、日本人の作曲家に会うことや話を聞くことはとても稀で、ましてクラシックのジャンルの人はなおさらです。アメリカに来る音楽クリエイターのマジョリティはポピュラー音楽、ジャズ、映画音楽などを専門にしていて、逆にクラシックをやっている日本人で海外で勉強したいという人は大抵ヨーロッパを選択します。相撲をやるなら日本で、というのと同じように、クラシック音楽のルーツはヨーロッパにあるので、それも大変納得のいく話ですよね。

ただ、アメリカの音楽大学への留学生、とりわけ中国や韓国などの他の東アジア圏から来ている学生はびっくりするほど多いんです。ボストンにいた時は特に、学生全体の半分くらいはアジア人なんじゃないかと錯覚するほど、本当にアジア系の留学生は多かった。彼らにとっては、アメリカで音楽留学という選択肢は、全くイレギュラーなことではないようです。そんな状況なので、「なんで日本人の留学生は片手で数えられるくらいしかいないの?」と聞かれることもしばしばありました。私が聞きたいくらいだよ、と思いますが、ここであえて、日本の音楽大学とアメリカの音楽大学について、考えてみることにします。一体何がそれほど違うのか、それがこの質問に対しての答えになるかもしれません。


日本の音大受験

アメリカの話をする前にまず、日本での私の経験をお話していきたいのですが、日本で音楽を勉強するとなると、一番に来るのはやはり芸大こと東京藝術大学で、関東圏には他にも有名な私立大学がいくつかあります。一般的にいって、平均的なレベルの差は学校ごとにあるかとは思います。しかしどこにいっても、その中には一定数とんでもない才能と素質の持ち主がいて、そうした人たちの音楽はある一定の閾値を超え、もう個人の好みでしか良い悪いを決められないんじゃないか、という次元に達しています。それでも芸大という大学はやはり国立大学、求めるボトムライン、最低基準というものが明らかに高く、生意気な言い方をご容赦いただくなら、芸大に入れただけでまずその人は"一流に達者な音楽家"であることは最低限保証されているといって良いと思います(そしてそこに至っているということは、素晴らしい音楽性や音楽に対する情熱の持ち主である可能性も高いわけです)。日本の音楽家を志す人たちにとって芸大受験は平たく言うなら登竜門的存在となっていて、かく言う私もかつては芸大を受験し、結果最終四次試験で落ち、その後伊藤弘之先生という方に出会って日芸に進むことになりました。これが私のアカデミアの始まりとなったわけです。

はっきり言って全く最近の音大受験のことはわかっていませんが、私の受験の頃から大きく変わっていなければ、日本の作曲科の受験は、まず和声と対位法という音楽理論の実践をテストするところからスタートし(各3-4時間程度)、それをパスすると作曲の試験、こちらは確か6-8時間程度で、与えられたテーマに沿って一つの曲を完成させる、というような構成になっています。これもパスできれば次にソルフェージュ、つまり聴音や新曲視唱のテストとピアノの試験があり、一番最後に面接をします。この試験構成で求められているのは音楽の"基礎力"、ハイドンやベートヴェンに続く西欧音楽の理論とコンテクストを理解し再現するだけの作曲技能があるか、そしてそれを目(スコアリーディング)と耳で判断できるか、そういった能力でしょう。基礎があって初めて、個性や応用ができる。それが、日本の音楽教育の徹底したベースにあるというのが、私の解釈です。実際、素晴らしい音楽を高いクォリティで作り続けている芸大の作曲出身の方に何人もお会いしてきて、その理屈は説得力のあるものだと感じます。
全く畑違いの、アメリカのとあるジャズギタリストが言っていました。「なんでどいつもこいつも楽譜がありますかと聞いてくる?上手くなりたきゃ、まず自分で何度も曲を聴け。自分で楽譜を書いて反復練習をしろ。人に聞いて楽をしようとするな」 まさに、私にとって当時の作曲の受験勉強はこんな感じで、クラシックの作曲家たちの楽譜を何度も読みこみ、ピアノで弾いてみて、コードやメロディーのパターンと展開の仕方と、各楽器の特性への落とし込み方を頭と体で学ぶ。頭と体の感覚が一致していなければ、それはまだ本当の意味でわかっていないということ。今思うと、英語を喋れるようになるまでの勉強も、大筋似た道のりでしたね。


アメリカの大学受験

それに比べると、アメリカの大学受験は、ずっと試験自体の負担は少ない。日本のように受験会場に毎日何時間もこもって和声や作曲課題を試験することはなく、今までに作った曲の楽譜とレコーディングをいくつか提出して、作曲に直接関係する部分は大体おしまいです。試験自体の負担が少ない代わりに、出願書類やその準備が大変なのがアメリカ受験です。私のような留学生は、TOEFLという英語の技能試験で一定以上の点数を取っておく必要がありますし、その他出願上重要なポイントとして、Statement of Purposeという、出願動機をつづったエッセイやら先生からの推薦文を提出したりするのですが、平たく言えばアメリカの受験は音楽家としての"基礎能力"、これだけが圧倒的に重要な要素というわけでもなく、いかにオリジナリティがあるか(作曲的にも人間的にも)、つまりアメリカ文化特有の"uniqueness"という価値基準と、アカデミックな能力、シンプルに言えば、自分の出願動機やそれまでの人生を如何に相手に"読ませる"文章にできるか、理屈の通ったセンテンスを書けるか、そういったこともアメリカでの受験のポイントになってきます。もちろん、大学も音楽的に優秀な人材を取りたいので、音楽の部分が周りより明確に優秀で実績なんかもあるのであれば、Statement of Purposeの内容がたとえ幼稚で無茶苦茶でも受かるだろうとは思いますが、それも言うなればアメリカの教育が求める"speciality"のひとつなのです。「あなたはどれだけ面白い人間ですか?」「人がしてきていない人生経験をどれだけしてきましたか?」そんな質問の数々に、それまで普通に日本でぬくぬくと生きていたハタチそこそこの私は大変面食らったのでした。

そんなadmission processの結果として、アメリカの大学には色々なバックグラウンドや、異なる興味を持つ人たちが集まります。作曲科の中には、ティーンネイジャーの頃は激しいヘヴィメタルのギタリストだった人もいれば、ハーヴァードからわざわざ音楽をやりに編入して入学してくるとんだ変わり者もいます。そもそも世界中から先生や学生が集まる多国籍な環境なので、好きな音楽も、家庭環境も、恋人に求めることも、何もかもが違くて当たり前なのです。そうしたコミュニティの自己防衛の機能として必然的に、相手の足りないところを指摘するのではなく、相手の優れたところ、特別なところを認める文化が出来上がります。そんな中で、例えばソルフェージュのスキルなんかは、必ずしも全員が同じレベルで持っているものではなくなります。私も、日本にいた時の「当然」の基準が、アメリカでは当たり前ではなくなる、そんな経験をしてきました。端的に言えば、Linuxのコマンドラインで楽譜を書いてるような理系オタクみたいな人や、一方グラフィックデザインが趣味な作曲家もいるかと思えば、休みの度に旅に出かける大変アウトドアな後輩もいます。(日本では、アウトドアな作曲家って聞いたことない気がします。)またアメリカの大学は基礎教養に時間をかけるので、そうした経緯で一見すると「音楽外」の要素、例えば哲学や文学などに明るい一方、メロディーを聞いてもドレミがわからなかったりする人もいるのです。ただし、いくら価値観が多様だといっても、音楽を勉強する大学である以上、「音楽が上手いやつが偉い」というヒエラルキーは絶対的で、それは日本でもアメリカでも変わりません。どんなに"special"なものを持っていたとしても、それだけで生き残っていける世界ではないわけです。ただ、その「上手い」の基準が一つとは限らないということ、またその上で自分の目指す「上手い」とは一体なんなのかということは、日本にいる場合よりもしばしば考えることになるかもしれません。


今までの8年の音楽大学経験を振り返って

ここまでが、日本とアメリカの音楽大学受験の、私なりの経験比較でした。どちらが良いか、というよりどちらが好きかは、人それぞれなのではないかなと思います。私の思い出としては、日芸に入学した4月の最初の作曲のレッスンで、いったい何を持っていったらいいのかわからなくなったことが記憶に鮮明です。それまで何とか受験を乗り越えたいという気持ちだけが先行し、和声や対位法を必死に学んで、ベートーヴェンのピアノトリオをアナライズし、自分なりには作曲も少しできるようになった気でいたのですが、いざ大学に入って好きな曲を書いていいよ!と言われた時に、いったい何をどうしたらいいんだろうとなってしまったんですよね。それでそこから先生に凄く助けていただいて、私ももう一度自分を見つめ直す決意をし、日芸生らしく髪を染めたり台風の中生身で嵐を浴びたり色々やって、最終的に今の自分に落ち着いたのですが(笑) しかしその一方で、音大受験時代に身につけた基礎のおかげで、今の作曲が助けられているのは間違いありません。アメリカの同僚たちに対して明確に、アドバンテージを持てるポイントでもあります。また、大昔に芸大の先生に言われたお言葉、「作曲家というのは"耳"の生き物なんだよ」というフレーズを、今でも自戒のように自分に言い聞かせていて、それが私の作曲哲学の基にもなっています。ですから個人的には、日本で勉強してよかったなと思うこともありますし、一方で学部からアメリカに来ていたら、今頃どんな音楽を作っていただろうなと思うこともあります。

先に書いたように、どこにでもすごい人はごろごろいるのが音楽大学ですが、私は自分の音楽観を変えてしまうような出会いをたくさんアメリカで経験しました。今の大学で周りにいるPh.D.の作曲家・理論家やジャズミュージシャンたちのことを私はとても尊敬していますし、また、アメリカの大学で出会った日本人の友人たち(片手で数えられるほどしかいませんが)は本当にみんなスペシャルで、若くしてすでに世界レベルの演奏をし、結果を残し始めている人もいれば、私と同い年でもうアメリカ中を駆け回って演奏活動している人もいます。彼らは彼らで、自分の才能に満足せず、音楽に向き合った結果、アメリカに行きつき、すでに素晴らしい彼らの音楽をさらに何物にも代え難いものにしようと努力しています。彼らの音楽と生き方に、今まで何度も励まされ、同じ日本からの留学生として自分もまだまだ頑張りたいと思ったものです。

私自身は、評価されるのも、比較されるのも、小さい時から鳥肌が立つほど苦手なので、いったいどうしてこんなところに来てしまったんだろうと正直思うのですが…笑 それでもやりたいことがあるのだから仕方ないです。
少し、日本の時の話に戻るのですが、高校生の時はじめてついた作曲の先生に、「芸大の作曲に入るのは毎年10人、その中で卒業まで残っているのは何割かで、その後卒業すると作曲を続けている人はどんどん少なくなっていって、一学年に二人いるかいないか」と言われました。違う折に、当時芸大の作曲の院生をしていた方にお話を聞く機会があって、僕、作曲をやりたいんです、とお話したところ、「作曲をやるのは本当に苦しいよ。もしその苦しみに耐えられる覚悟があるなら、応援するから頑張って欲しい」と言われたのをよく覚えています。今、自分が院生という立場になって、同じように若い人に聞かれたらなんて答えるかなぁなんて思うのですが、彼らに同調してひとつ言えるのは、受験に成功した才能ある学生でも、音大で音楽を続けることは難しい。(金銭的苦労がなかったとしてもです。)それがなぜ難しいかは、"最低限"のレベル、という言葉をこの記事で使っていることからもなんとなく想像できると思います。現代においてアートは金にならない、そして普通の生活をしながらアートをやる時間や余裕だってない、そんな周知の現実的なハードル以前にまず、コミュニティの中でアートを続けるという行為自体が大変なことなのです。

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もしあなたがせっかく入った音楽大学の中で、下手な方だったとします。ひょっとした機会に外のプロの世界が目に入ったりもして、もしかしたら、自分は「落ちこぼれ」だと思うかもしれません。はっきり言ってあなたはプロの音楽家にはなれないかもしれず、イコール、自分が音楽をやっている価値はないと、それを認識しようとしまいと、感じるかもしれない。けれど、私はそうは思いません。音楽が社会にある意味とは何か、音楽をなぜあなたが必要とするのか、そんなことに向き合う覚悟とそれを言語化できる教育そして環境さえあれば、それ自体が音楽を続ける理由であり目的になるはずです。例えば、まずは思考の出発点として、あなたは誰より音楽を知っているし、繰り返しそれを聞いてきている(そうであってください)ということに気がついてみる。その対象はミクロであってもマクロであっても構いません。その事実と自信が、音楽をライフワークにしようと考えている人にとっては、とても大事なはずです。ここで私が示唆しようとしているのは、社会の中で再現するための具体的な「もの」であって、哲学的な「価値」ではありません。わざわざ大学で、音楽を一種の教養として体系的に学ぶ、その意味の一つはここにあるはずです。

音楽を勉強しているからには、音楽で一番になることを、まずは目指してください。けれど、音楽をすること・続けることの本来の意味はそこにはない、ということも同時に、少し思ってみてください。誰にも負けないくらいの強い気持ちがないと続けられない、それも事実だけれど、ある瞬間あるきっかけでその強い気持ちが折れてしまえば、そこから気持ちを立て直すのは難しい。私の今までの8年を振り返ってみて、決して一色ではない様々な記憶や感情と想いが呼び起こされるのでした。
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なぜアメリカを選ぶのか

留学の話に戻ります。アメリカに来ている東アジア人の留学生に、なぜアメリカに留学したのかを聞いてみると、大概三つの答えが返ってきます。一つ目は、自分の先生がアメリカを勧めた、もしくは習いたい先生がアメリカにいたから。これは、日本での現状と大きく違う点です。日本では、先生も先輩も、海外に行く人はほとんどみんなヨーロッパに行くか行っていますからね。そもそもアメリカ・カナダ・イギリスなんかの状況を知っている人は少ないかと思います。

二つ目の理由は、英語習得のハードルが、例えばフランス語やドイツ語のそれより低いから。正直多くの日本人にとっては英語だって十分すぎるハードルで、私もそう感じていましたけど、やはり英語は英語。世界の共通言語です。逆にヨーロッパからの留学生なんかには、何ヶ国語も流暢に喋るようなインテリジェントお化けもいて、Ph.D.生としては自分の言語能力の低さにがっかりすることも多々ありますけれど、そんな言語のお話はまたいずれ。(下書きはあるので、なるべく早めに投稿したいですね)

三つ目の理由は、アメリカでの音楽の仕事、大学での仕事が高待遇だから。確かに、アメリカにいて、仕事のチャンスが多いなということは、そういう話に鈍感な私ですら感じます。そんな仕事の環境の話もまた一つの記事になるくらいの大事な話だとは思いますが、私がまず思うのは、17-8そこそこの歳の学生が、仕事が良いからアメリカに留学に行きますって、日本の普通の高校生は考えますか?ということです。少なくとも私が18の時はそんな発想は全くなかった…笑 音楽をやること、作曲をやること、少しでも自分を打ち破っていい曲を作ること、そんなことに必死で、アメリカの仕事の待遇がどうとか日本がこうとかなんて考えてる余裕はありませんでした。そういう意味では、音楽を音大で勉強することに取り憑かれていたのかもしれません。そのくせ比べられるのは嫌いだとか甘っちょろいことを未だに溢してしまうわけですが。


最近の日本の若い人たちと話していると、(私もまだ20代ですけど)本当に色々なことをフラットに考えていて、すごいなぁと感心しますが、それでも、もし日本の若い音大生や、これから受験をしようという人がいたら、色々な世界を見てみてからでも遅くないんじゃない?と、言ってあげたいかな、と、少しずつおじさんになりゆく私は思っています。


修士を修了した時の写真の一枚から。アメリカのCommencement(卒業式)は、日本と違って、オーディエンスが壇上の卒業生を囃す声で賑やかです。たった2年でしたが、修士を卒業した時の達成感はひとしおでした。


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