頭が割れる
SNSではなく、ブログで文章を書いているのは、それなりにちゃんとした文章を書きたいという気持ちがあるからそうしているのだけど、必ずしもそうではなくてもいいのかなあ――「むしろ直情的な思いを書いた方がいいのか?」と、思ったりもする。
そもそも誰かに伝えたくて文章を書いているわけではないので、書く内容が周囲に影響される――おもねる――ことはないのだが、とはいえブログでそれを行っている以上、誰かは読んでいるということが前提になるので、伝えたいという気持ちが全くのゼロだとも言えない。
矛盾主義者――完全矛盾排除主義者ではないという意――なので、全ての事柄や内面を折り合わせなくてはいけないとは思っていないのだが……ああ、何を書こうと思っていたのかわからなくなってきた。
“松本人志さんの件”は、男性であることを否定せずに向き合おうとすれば、するほどに苦しい。
「週刊文春」自体を読んではいないので、巷に溢れ返る情報――質の良し悪しに関係なく――を全て含めての話ではないが、松本さんは、性加害を行ってはいないと思っている。
この場合における性加害というのは、“認定されていない性犯罪”という意味で、「レイプ」を指す。
セクハラについては、認識の差が人それぞれに出てしまうので、たとえば“言葉によるセクハラ”については、性加害という言葉の範疇に、自分は含めていない。
セクハラ――言葉によるセクハラ。
性加害――レイプ。
もちろん“言葉によるセクハラ”と、それとは別に「セクハラ」という、二つの言葉がある時点でおかしなわけで、“知り合い同士の関係でお尻を触る”といった身体的なセクハラもある。
これについては、性加害に加えてもいいような気もするが、微妙なライン。
松本さんの話に戻ると、仮の話として、松本さんが性的関係を持ちたいという気持ちがあり、その女性に身体的に近付いた上で、女性が身体に触れられたか、それに近い時点で、松本さんの身体を突き放すように拒絶していてなお、松本さんが力尽くで行為に及んだとは思っていない。
記事の中で、詳細がどのように書かれているかは知らないが、自分は上記のように思っている。
また、松本さんが「事実無根」だとしているのは、この一点なのではないかと思うし、事の重大性、深刻度を鑑みた時、この一点をもって「事実無根」という言葉を使うことには、何の違和感もない。
それこそ「女好き」であるとか「SEXを目的としたパーティーを開催していた」などは、ただの“個性”だから。
“芸を磨くために、それが必須だった”とは言わなかったとしても、悪びれる必要もない。
そう断言出来るほどに、「強制」があったかどうかこそが問題であり、また事実上の犯罪であって、ここにモーセの十戒が如く激烈な差があると考えている。
「女好き」の男性が、「SEXを目的としたパーティーを開い」ても、女性が「SEXを拒絶したら性交渉が不成立に終わりました」なら問題ない。
逆に、これが問題(性加害)であるという共通認識が持たれていた時代が、2024年現在の時点であっただろうか――?
自分の認識では、そんな時代、一度も訪れたことはないと思うのだけど。
所詮、松本さんのことも他人の話なので、まさに他人事で済まそうと思えば、それは可能なのだけど、世の中的にそれでいいのだろうかと範囲を広げると、自分のことのように苦しい。
この度、読売テレビの大橋善光社長が新春の会見でこう述べた。
「事実関係について情報収集をしている段階で活動休止が発表され、大変困惑しているのが正直なところだ」
「個人的には、会見などの形である程度明らかにしていただくのが好ましい」
と、松本さんが出演する「ダウンタウンDX」の今後に触れる形で今回の件について言及し、さらに
「例えば松本さんと女性側が番組内で直接対話するということがあるならば、こちらとしてもぜひ放送したい」
とした。
これを受けて、元放送作家の長谷川良品氏が
「これ、読売テレビ社長の発言です。これがテレビの現実。眩暈がする」
とXでコメント。このポストに相当数の人たたが同調しているようだけど、偏っている。
何故、お互いが発言できる場所を用意することで、読売テレビの社長が批判されなければならないのだろう。
松本さんは「事実無根」だと言っているのだから、それに対して被害を訴える女性にもオファーを掛けるというは、フィフティーフィフティーではないのか――?
今、一部で言われているように、今回の件は、「真実」ではなく「真実相当性」を争う裁判になる公算が高い。
もっと言えば、被害を訴えている女性側の発言が揺らいでも、「週刊文春」は“女性からそのような訴えがあった時点で、報道機関としては取り上げる意義があり、記事の内容は取材を尽くした結果に過ぎない”と、女性を切り捨てることさえ可能だ。
裁判官は先入観を排除して、原則、法廷で行われたやりとりのみで判決を下すため、見方によっては、それは“裁判ゲーム”。
勝ち負け。白黒。
白か黒か――を付けなければいけない場だから。
被害者遺族が「不当判決」とか、「裁判とは真実を明らかにするものではなかった」と、判決後に悔しさを滲ませるのは、このようなところに理由があって、そもそも解り合おうとする空間ではない。
「不規則な発言はしないように」と裁判官自体が制するように、少なくともディベートをする場所ではないので、議論を戦わせゆく中で、“心みたいなもん”を感じることを期待していると、大きな肩透かしを食う。
それこそ、松本さんが夜道を歩いているだけの女性に襲い掛かってレイプに及び、「後ろから飛び掛かりたくなる理由があったんです」と訴えて、「わかりました。じゃあ被害者であろう女性と対話の場所を設けましょう」と読売テレビの社長が言っているのであれば、「は?大丈夫か!?」になるけど。
けれど、今回の件は、客観的に見て、「対話」すら禁忌させなければいけない事柄なのだろうか――。
正直、これにYESと即答出来てしまうのは、松本さんに対して、あまりにも惨い。
松本さんが性加害を加えていたならば、松本さんの有利に働くかと言えば、そうではないのだから。
そのような状況を、冷静になって踏まえると、長谷川氏の「これ、読売テレビ社長の発言です。これがテレビの現実。眩暈がする」という発言は、あまりにも惨過ぎる。
テレビの世界でメシを食ってきた人間であると考えると惨い、惨いよ。
“コンプライアンス的に――”といった何となくの風で、「本質」を蹴り転がしていいのか?
仮に裁判で――その裁判の内容にもよるけど――、松本さんが黒でしたという判決が出たとしても、「男性」もしくは「男性性」というものの理解が深まれば、全くの無駄ではなかったのかもしれないという片付け方も、出来なくはない。
その過程で、「女性とはこういうものだったのか!?」という理解を深める努力もしよう。
しかし、現状、そのような方向に向かっているようには、自分には見えない。
松本さんの心情を考えると、絶対に強制はしていないという確信があるからなのだろう、“男女間の理解促進”というよりは、“怒り”から「週刊文春」の方に矢印が向いてしまっているのだと思う。
「記者会見」をやらないのもそれが理由で、そこにブレは感じないが、自分が“黒判定”されたとしても、「男女間の理解促進という裏テーマを持った記者会見」は、やった方がいいのかもしれない。
もう、記者会見をやってもやんなくても「週刊文春」は馬鹿売れしちまうんだから……。
ただこれも、結局、他人事だから言えるんだよなあ……。
読売テレビの社長が考えていたことは、自分が考えていたことでもあって、これを言下に否定する世間に対し、息苦しさを覚える。
男性であることが「罪悪」であるかのような閉塞感がある。
少なくとも、これを「セカンドレイプ」だと即応出来てしまう人は、一度立ち止まって考えて欲しい。
立ち止まって考えても、何も変わるものがないのであれば、それは“あなたにとってのやさしい世界”ではあったとしても、「寛容性のある社会」とは似て非なるものだから、せめて“非寛容性”を元にそのやさしげな世界は成り立たんとしていることは、認めてもらいたい。
その程度の救いは欲しい。
封建時代へと時計の針が巻き戻らんとするかのような錯覚。
虎穴に入らずんば虎子を得ずという勇ましさとは真逆の理由で――
「彼女」が欲しい。
余談中の余談。
大竹まことさんがこの文章を読んだら、一撃で看破するだろう。
「こいつ、ヒモ(体質)だな」
って(苦笑)。