戯れ言ついでに

前記事のついで、というか、続きのようになるのだが、「コメント」がないこと——または「コメント」というもの——について触れたいと思う。

Yahoo!のコメントもそうだが、YouTubeのコメントなどを見ていても、雑なコメントが目に付く。
“雑”というのは、文章が荒いという意味だけでなく、「そこにそういう引っ掛かり方をしなくてもいいんじゃない?」というコメントも含まれる。どちらかと言えば、こちらのコメントの方が、自分からは縁遠い。
もう少し具体的に言うならば、書き込まれたコメントに対し、「偉そうなことを言う前に、お前、文章の書き方どうにかしろよ」系のコメントである。

個人的には、「無いな」と感じさせる“捲り方”。
というのも、“生意気だ”と判断されたそのコメントのほとんどが、あくまで“その人なりの主張”であり、“一意見”に過ぎないと感じさせるからだ。

是正、修正、訂正——善いもん側のつもりなのかもしれないが、何だろうかこの風紀委員ぶりは。
筆致の拙さを指摘することが、良き世の中に繋がっていくとは思わない。
「間違っているものを指摘しているだけだから」というスタンスだとするのなら、味気ないことこの上ない。

また、特に初めてコメントを書き込んでいるのではないか、と感じさせる意見に対しての“文法揚げ足取り”は、見ていて切ない。
果たして、文章の下手くそさに反応しているだけなのかもしれないが、“下手なりに心を込めた筆致”を見れば、それが「初コメ」であることまで想像できそうな気がするのだが、それも承知の上でそのような意見に対し、文章上の瑕疵を夢中になって捲り上げているのであれば、優しさという考え方への隔たりが大き過ぎる。
もし、それをきっかけに、その人が文章を書くことをやめてしまったらどうするのだろう?
「だから?」といった感じなのだろうか。

ただ、そんなコメントでも——そんな主張しか出来ないのなら——書き込んでもらって構わない。
……何故、構わないのだろう?

おそらく、そのようなコメントが来ても、自分は書くことをやめないだろうからだ。
また、正確に言うのなら、自分なりの“意見”や“主張”を、頭の中で転がすことをやめられないだろうからだ、ということになる。そして、そういった理由以上に、「面倒くさくなった」から書かなくなる可能性の方が、遥かに大きい。
しかし、一方で不思議でもある。

一意見を、文章の良し悪しで捲ることに対して品がないと思っていない人には、その人なりの価値観があるのだろうが、そうでなかったとしても、コメント上で荒々しい口調や振る舞いを見せている人は、何故そうなってしまっているのだろう?そういうふうにするのだろう?
“デジタルタトゥー”という言葉もあるように、その言葉は残るのだ。気を遣ってこそ普通であるような気がするのだが。

普段からそういう人間なのか?
——そう言うと、「そんなわけないだろう」という声が聞こえてきそうだが、自分の価値観だとそうなってしまう。
自分は、実体のある自分の方が、圧倒的に下品な奴だからだ——。

にもかかわらず、そんな自分が、自分でさえが、一個の形となり様々な人の目に触れるかもしれないからと、気を遣って書いているのに、そうは見えない書き込みをしている人とは一体——。
だが、他方でこれは、インターネットに対する距離感に過ぎないのかもしれないとも思う。

正直、「ファミリーコンピュータ」を特別なおもちゃと感じてきた世代からすると、「インターネット」もスペシャルなもの——と、多分、どこかで思っている。
現代に適応できていないという部分で、よいことだとは思えない。
それに比べると、実体より荒々しかったり、馴れ馴れしかったりするコメントの人たちの方が、ネットを使いこなすことが出来ているはずだ。
“美意識”を感じさせない雑なコメントも、ただの親しみやすさなのかもしれない。“親しみやすく”という気持ちもないほどに。
そう考えると、“何を守って、どこで攻めるか”だけのような気もする。

たとえば、ついでの戯れ言で書き始めたこの文章であるのだが、「戯れ言」は「戯言」とも書く。読み方は“ざれごと”だ。
だがしかし、“たわごと”という日本語も言葉として存在する。漢字にすれば「戯言」だ。
つまり、「戯言」と書いて、“ざれごと”とも“たわごと”とも読む。意味もほぼ一緒だ。
しかし、それではどちらで書いているか判らないということで、“ざれごと”の時は「戯れ言」と使い分けている。
——という守り方をしている。

だから、自分が文章(ブログ)を書くのをやめる時は、自己に問題がある。
「ああ、面倒くせぇなぁ」——誰も気にしていない細かなラインコントロールに、自分自身が嫌気を差した時である。

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