維新の組織論 後編 (激動の社会を生き残るための機能)

(この記事は、2022年5月26日に前ブログで公開されたものです。)
前回、政党内での意見の相違があっても決まったことには従う文化や反対意見もうまくまとめられる知恵が大事、という趣旨のブログを書いた。今回はその続き。


政党組織を強くするにはもう一つ大事な要素がある。


これはガバナンスと言うより、組織が社会(政界)の変化に対応していくための仕組みという観点であるが、『いくつかの考えを同じくするもの同士の集まり』、すなわち『派閥』である。


90年代ごろの政界では、『派閥』は悪いもの、諸悪の根源かのような扱いであった。

実際、衆院選が中選挙区制だった時代は、選挙にお金がかかったため、派閥は選挙資金を供給し傘下議員の忠誠心を派閥領袖に集めるものとして機能していた。


そのため、派閥は多額の資金を何らかの手段で集めてくる必要性に迫られるわけだが、金権政治の温床となっていた側面を指摘されていた。


一方、派閥は勉強会や新人議員における教育機関としての役割も担っており、必ずしも弊害ばかりではない。


しかし、私はこのような政党における議員に対する派閥の効能を説きたいわけではない。


冒頭で話をしたように、政党が社会(政界)の変化に対応していく仕組みとして、派閥は必要であるということを述べたいのである。


では、なぜ派閥は社会や政界の変化に対応していく仕組みとして機能していくか。

それは、多様性という言葉に一つのヒントがある。


過去の歴史に学ぼう。


60年程遡り、岸内閣の時代である。


岸内閣が内閣を挙げて取り組んだのは、何と言っても日米安全保障条約改正である。


旧安保条約における問題点(日本がアメリカに基地を提供する一方でアメリカ側には日本を防衛する義務はなく、また日本はアメリカの基地使用に対する発言権もない)を解消し、安保条約の不平等性を正す必要があったが、戦中の記憶もまだ鮮明な中『日本が再び戦争に巻き込まれる』という拒否反応から、安保改正に対して非常に大きな反対運動が巻き起こり、国民的混乱を招いた責任として、1960年6月に新安保条約の批准後ただちに内閣は総辞職を表明することとなった。


しかし、その後現れたのは、経済重視で国民所得倍増計画をぶち上げた池田勇人である。


池田勇人は、安保闘争で傷ついた国民の心を癒すべく、経済重視の姿勢を鮮明にし、『憲法9条改正』といった自民党の党是とも言える保守イデオロギー的政策は封印したのである。


安保闘争の混乱で多くが自民党の苦戦を予想していたにも関わらず、1960年11月の総選挙では、当初は安保を争点とするつもりであった社会党など野党もあわてて経済政策を前面に出すなど、選挙戦は自民党のベースで進み、結果は戦後最高となる301議席、自民党の圧勝。


池田内閣はその後4年以上に渡る長期政権になった。


憲法9条改正等の保守志向の強い岸内閣から、経済重視の池田内閣への転換は、単に内閣の顔ぶれが変わったという意味にとどまらず、自民党内における岸派(十日会(今の安倍派の源流))から池田派(宏池会)への派閥間政権交代を意味した。


岸派は、憲法9条改正に積極的である一方、池田派は自民党内にあって比較的消極的で軽武装を志向していた。

経済面でも、岸派の流れを組む今の安倍派は自由競争を重視し、今の岸田派(宏池会)は伝統的に再分配を重視している。

案外同じ自民党といえど、派閥間で考え方に違いがあるのである。


しかし、この考え方の違う派閥が、入れ替わり立ち代わりで内閣と自民党の主流を担うことにより、自民党自体が生存していくのである。


今挙げた岸(派)内閣における安保闘争の混乱から池田(派)内閣への転向により自民党が息を吹き返した事例のように、自民党内の政権交代で自民党自体が生き延びた例はこれだけではない。


オイルショックも重なり自らとなえた日本列島改造ブームが狂乱物価となって批判を浴び金権政治のある種シンボル的存在だった田中角栄(のちに金銭問題で逮捕)から、福祉重視でお金にクリーンな三木武夫。

さらには、直近の例だが、(安倍政権の政策的考え方を引き継いだ)菅義偉から岸田文雄への政権交代は、清和政策研究会から宏池会に政権交代したことに等しく、奇しくも約60年前に自民党内の主流派が岸派(十日会であり現清和政策研究会)から池田派(宏池会)に変わった歴史をなぞるようでもある。


安倍政権(実質的には菅政権も含む)は初速こそよかったものの、大企業からやがて中小企業へと利益はしたたり落ちてくるというトリクルダウン理論はついぞ実現せず、政府による再分配を求めるようになった世論の変化に、自民党は総裁選を通じて再分配を重視する宏池会の岸田文雄を次のリーダーに選ぶことで対応したのである。


そして、その試みは、総辞職前には瀕死の支持率だった菅内閣に打って変わって、岸田内閣の高支持率につながっており、今のところ成功しているように見える。

(もっとも、菅内閣の支持率低下は、コロナ対応や学術会議もろもろの対応が強権的に見えたことも原因としてあるため、経済政策の問題だけではないことは一応言い添えておく。)


派閥自体はそのようなことを意図してできていたわけではないと思うが、考え方の異なる派閥の政権交代により、世論の流れに柔軟に対応する仕組みが自ずとできてしまっていたのである。政治学の世界では、政党間の政権交代と区別して、派閥間の『疑似政権交代』と言われている。


様々な考え方の派閥が、自民党という一つの政党でひしめき合うことで、柔軟に外部環境の変化に対応する。自民党は、現代において多様性という言葉が流行する前から多様性を尊重し、それを自らの生存能力に利用していたのである。ある意味時代を随分先取りしていたと言えよう。


さて、維新だが、派閥と言えるほどのグループは今のところできておらず、党代表選も行われていないためか、党内において政策や考えの対立軸らしい対立軸もない。


政策や考えが同じくする政治家が集まっていると言えば聞こえは良いが、多様な考え方を内包できているかと言えば・・・うーん。。。。。と言ったところ。


これから国会議員の人数が増えていけば、自ずと派閥ができてくるのかもしれないが、単純な人的関係による派閥ではいけない。自民党のように様々な考え方を持つバラエティー豊かな派閥ができるか。


そのためにも、様々な人材をリクルートすることが肝要。


そして、前回のブログで解説したように、決まったことに従う組織になれるかどうかが大きなポイントになるだろう。


派閥間の政策論争が激しく行われても、決まったことに従う文化が無ければ、たちまちに空中分解してしまう。


『派閥』と『決まったことに従う文化と知恵』。


この2つが、維新がさらに飛躍するために不可欠な組織的要素と言えるだろう。

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