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拷問人の息子 El hijo del torturador 第2章「紫煙」

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拷問人の息子 El hijo del torturador 第1章「手違い」を読む

拷問人の息子、エル・イーホ

 拷問人の息子、エル・イーホが父から受け継いだのは、金勘定のやり方と信用できる人間の見極め方、そして人間の壊し方だった。いや、正確に言えば父親からではない。早くに亡くなったとされる父に代わって、母親から叩きこまれたのである。
 だが、その母もいまはいない。
 成年に達して管区の筆頭拷問人(エル・トルトゥラドール・スプレモ=デ・ディストリト・デル・インペリオ)を襲名した彼が、帝都で黄印の兄弟団(エルマノス・デル・シグノ・アマリリョ)から認証を受けている間に、ころっと死んでしまったらしい。いや、らしいとはずいぶんぞんざいな物言いである。だが執事のエリオガァバロから、いつも以上に真面目腐った顔で『お母様は姿が見えぬケダモノに貪り食われてしまわれたので、ご遺体にはお目通りかないませぬ』と告げられた時、なにもかもがどうでもよくなってしまったのだ。もちろん、少なからず敬愛していた母親が文字通り消滅したことへの、喪失感がないはずはない。ましてふたりは親子というよりは師弟であり、また姉弟というか、ときには夫婦めいてさえいたのだから。
 ただ、そのような深い関係だったからこそ、自らの襲名と同時に母親が『消された』ことの意味について、なんとなく察しがつかなくもなかった。それはエリオガァバロの奇妙なたとえ話からも十分に伝わるし、おそらくは『死んだことにしておきたい』のだろう。まぁ、それにしてももう少しましな言い草はなかったものかとは思う。馬鹿正直だけが取り柄なのに持って回った話をしようとするから、わけがわからなくなる。
 とはいえ、葬儀や遺品整理を通じて母の親友だったウルスラとねんごろになれたのだから、まぁ悪いことばかりでもないのかもしれない。
 そんなことを思いながら、夜の終わりを告げる光が差し込む天井を見上げた。
 もう少し眠っていたかったし、できればもう一度ぐらいは楽しみたかった。だが、そんなことをしていたら、屋敷の朝食に顔を出せなくなる。
 静かに体を起こすと、横で眠るウルスラのむっちりした尻を、未練たらしくそっとなでた。
「いくの?」
 踊りのけいこで鍛え上げられた背中をかすかに丸め、さほど大きくもない寝床の隅に体を寄せたさまは、どことなくふてくされたような雰囲気を漂わせている。
「夜が終わったからね」
 エル・イーホは身体をかがめ、ウルスラの浅黒い額に唇を寄せる。
「行くならさっさと支度して! 私はまだ寝るから」
 ぴしゃりと言い放ち、ウルスラはシーツを頭からかぶってしまった。
 エル・イーホは立ち上がると無言で服を身につけ、静かに扉を閉める。

 娼館の裏に立てかけた自転車を引っ張り出すと、朝もやけぶる砂利道へこぎ出す。駅が近づくにつれ、屋台からイグアナの丸焼きや亀の煮込み、芋虫の素揚げを売る呼び声が聞こえ始めた。やがて、騒々しい物売りに交じって、煮込んだトマト、ジャガイモの炒め、トウモロコシの蒸しパンなどなど、食い物が放つ濃厚な香りにも包まれる。
 屋台の周囲にはオリーブ油とニンニク、チリの混ざった湯気が立ち込め、自転車で駆け抜けるエル・イーホの食欲を暴力的に刺激した。帝都の筆頭拷問人とはいえ、なにもお高くとまっているわけではない。買い食いしようが娼館に通いつめようが、失われる品位も品格もないし、反対に懐の金はたんまりだ。
 いや、問題は金や品位じゃない。
 もし、エル・イーホが屋台でなにか注文しても、金を受け取る店主はいないだろう。
 それどころか、その日は屋台をたたんで帰るか、その足で黄衣王の寺院へ行って有り金すべて寄進するかもしれない。
 穢れをはらうために……。
 つまるところ、エル・イーホが店主にかかわると、互いにろくなことはないのだ。
 うまそうな香りだけを胸いっぱい吸い込むとエル・イーホはペダルに力を込め、思いっきりこいだ。

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