亡霊

目が覚めて部屋の窓を開けると、頬に冷たい空気を感じた。
上を見るとどんよりとした灰色の空、下は水たまりがコンクリートの地面に散らばっている。
また雨が降ったのか、今は止んでいるけどまた一雨来そうだな。
そう思って、取り入れた新鮮な空気を肺に満たしたあと窓を閉めた。

タオルと下着を持ってシャワーを浴びに行く。
同じことの繰り返し。
1日1日が毎回違ったとしても、この動作は変わらない。
そんなことを毎日は思わないけれど、今日はそんなことを思いながらシャワーを浴びた。

いつもと同じ時間に家を出て、仕事へ向かう。
電車も毎日時刻表通りに乗せてくれるが、乗ってる乗客は毎日同じとは限らない。
そんななかでも、1人や2人は自分と同じ電車に毎回乗っている人がいる。
たった15分間の乗車時間だけども、その人達は自分の中の日常になっている。

名前も素所も知らないのに、その人が自分の中の日常から1日いないだけで、もうそれは日常ではなくなる。
そんな気がしている。

乗っていた電車を乗り換え、別の路線に移る。
ここもまた一緒だ。
乗り換えが一緒の人だっている。
だから、乗っていたとしても乗り換えなかったら違和感が生じる。
日常がまた少し変化した証だ。

仕事先へ着いて着替える。
1人1箇所与えられたロッカーの前でのそのそとスーツへと着替え始める。
ワイシャツのボタンを1つずつ止める動作や、ネクタイを締める動作がとても億劫に感じる。
普段、私服でボタンを止める服を着ることだってあるのに。
そのときはその動作をするのになんの疑問も持たないのに。
自分が"嫌だな"と思うことにはトコトン思考が敏感になるらしい。
この場合、着ることが嫌なのではなくて、これから着替えて仕事をしなければならない、ということが嫌なのだ。
ため息をつきながら荷物をしまい、タイムカードを押しに行く。
長い長い勤務の始まりだ。

自分のポジションに立ち、今日のお客様名簿を眺める。
まだまだ到着してない人がたくさんいる。
仕事は至って単純。
パソコン管理で、泊まっていくお客様のチェックイン業務。
来館したら名前を聞き、書類に必要事項を書いてもらい、精算するだけ。
その他の時間は予約が入る度に宿泊サイトから送られてくる用紙をチェックして、入力するだけ。
もちろんそれだけでは、時間が余る。
ぼおーっとしながらパソコンでネットサーフィン。
Yahooニュースを5分に1回くらいチェックして、全国で起こっている事件・事故を眺めてる。

退屈だ。
ここに立っているはずなのに、ネットの中にいるみたいだと思った。
パソコンをカタカタするだけで仕事はできてしまう。
操作をしているだけ。
全て自動化したら自分の存在はまったくの無意味だなと思った。
だから、今の存在もきっと"操作をするため"というより"来店したお客様を笑顔でもてなすため"のほうが正しいだろう。

笑顔とは一体なんだろうか。
笑っている顔と書くが、普段自分がしているのは笑みではない。
口角を少し上げ、笑っている風なのだ。
心から笑っている訳では無い、
お客様が来店してくることが心から笑えることだろうか?

変な感じだ。
飲食でバイトしてたときも、もちろん笑顔は大切だった。
接客をするためにあたって重要なのは笑顔だというが、それはこちら側も楽しくないと自然と出ない。
飲食をやってるときは、自分が調理したものを美味しいと言って喜んでくれたらそれは笑顔になる。
こちらが楽しい、嬉しいからだ。

コンビニバイト時代も笑顔になれることはあった。
お役様が喜ぶことは何か、急いでる人には速いレジ打ちだったり、常連さんとは少し世間話をしたり、お年寄りには出口まで荷物持ったりと、色々あった。
これらは向こう側から"ありがとう"と言われる事柄だと気づく。
今の仕事にそれがあるのだろうか?

多分間違いなく、ある。
でも今までと比べるとそれらは極端に少ないし、なにより客層が違う。
ビジネスの街だ。
経済を回している、サラリーマンたちが集う。
日々仕事に追われ、眉間にシワがよっている。
そんな人達は、日々の感謝と気遣いを完全に忘れてしまっている。

周りが見えていないのだ。

ロビーに飾ってあるクリスマスツリーを眺める人も、写真を撮る人もいない。
受け付けに置いてある、機械で雪が舞う雪だるまの置物をいいなぁと思う人もいない。
毎年毎年やってくる季節をただなんとなく過ごしている人が多すぎる。
そんな人達に自分はどう笑顔になれればいいのだろう。

わからなくなって、気づけば自分で違和感のある笑顔が身についてしまった。

パソコンの画面を覗き込み、ただただ世の中を眺める。
電子の世界に身を落としている。
今、立っている自分は何者でもない。
ただいるだけ。

それはまるで亡霊だ。

心が通っていない。
そう思ったときから、この仕事を続けていく第1歩だと思った。

この時間だけは亡霊になり、この場所を1歩出たら。
目に光を宿して、体からは少し光っているような、すれ違う人が何気なく振り返ってしまうような。
生き返るんだ。
息をして、肺に空気が入っていくのを感じて、今日も生き返ったと。
その足で、今度は亡霊ではない生きている人達がたくさんいる場所へと向かうんだ。

亡霊には音が聴こえない。
流れているクリスマスソングを口ずさむ奴はいない。
生きている人には聴こえる。
気づいたら1人でもそっと口ずさんで歌っている。

そんな音と共に生きている人達のところへ。


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