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共感が生む、熱狂と絆の話

“必要以上に"共感をするクセが、私は小さい頃からついていた。

幼い頃、あまりにもおとなしく、しゃべらない存在だった。気づけば自己主張というものがどんどん下手になっていて、正直、大きくなるまでそのやり方がわからなかった。常に相手の言うことを素直に受け入れて、共感力がある以上に、自分の思いとの境界線がなかった。

中学生の時に、あまりにも友達の判断基準に迎合しすぎて、「なんでもいいよじゃ何考えているかわかんない」とバッサリ言われたことも覚えている。それくらい、主張のない子として育った。社会人になりたての頃には、相手への“共感“をしすぎたことによって、自分の意見がないとよく叱られていた。


ただ、ひとつだけいいことがあった。
社会人になって1社目の、女性の共感がベースになるビジネスモデルの中では、「共感」が生み出すパワーにたくさん触れ続けていた。
たとえば、「かわいいよねーー!!」という感性で共有できるファッションやライフスタイル。とにかくそこには理由なんてなかった。ただおしゃれで、ただ時代の空気をど真ん中で捉えて、どうしようもなく魅力的だった。だからみんなで、ファッションも「いいもの」に共感しあったし、それが話題でもあった。それを言葉で説明をする必要がなかった。ファッションに限らず、Netflixのドラマ、音楽フェス、話題のお店、日常に溢れていたものたちは、どれも全部、共感を生み出す種になっていた。

例えば一つ、判断すべきビジネス上のアイディアがあったとする。AかBか、どっちがいいかなんてロジカルに説明できなかった。でも、センスを共感しているメンバーなら「圧倒的にこっちだよね」が即答できた。それは不思議だったし、価値観だったし、間違いなくひとつの絆だった。

お客さまの求めているもの。相手へ響く言葉。共感を通じて相手の喜びを具現化したときの盛り上がり。それが思いの先であり期待の先であり、そこを追求する楽しさがとてもあった。そう、「いいよねーー!!!」という、「共感が生み出した熱狂」に日々、出会い続けていた。

私の社会人人生の最初の居場所は、常にそんな"熱狂が生み出した舞台“にあった。


***

2022年から私の日常が変わり、集団の共感よりも、個人の信念や価値観が色濃く出る場所に生きることになった。「共感」がぱっと日常から少なくなって、いつからか手放していた、自分個人の輪郭を手で触ることが増えた。

最初は、プライオリティを高く持っていた「共感」が邪魔だなと思った。相手へ、“必要以上”に意識を持っていかれる、自分の不必要な共感力に呆れていた。もっとなくなればいいのに。シンプルにそう思っていた。共感力は邪魔であり、自分の個性が出せないのだと思っていた。


けれど、今立ち戻って思う。
共感は、熱狂のベースになる。共感することが、言葉で言い尽くせない高揚感や一体感を生む。それは、絆になり、思い出になる、のだと思う。
誰かと好きや価値観を共有した時の「うわっ」と心の奥から湧き出る感情、感覚。説明できない「あの何か熱いエネルギーみたいなもの」は、やっぱり私の人生において欠かせない。そう思った。

人は結局ひとりで生きている。それでも、そんな人生のうちの喜びのいくつかは、「あれ、最高だよね!!!」とか「うん、よかったーー!!!」という、感覚の共有にあるのだと思ってる。共感した時の、魂が震えるようなあの感じ。同じものを見て、同じ時間を過ごして、時には一緒にビールを飲んで。説明ができないのに、何かつながったような感覚。私はその感覚があるから、その瞬間に、やっぱり「生きている」と思えるのかもしれない。


私にとって、共感する力は、人生を豊かにする秘訣だ。

自分の輪郭がはっきりした上で使う共感という武器は、大きな思いの渦と絆を生む。その先には、かけがえのない思い出と、仲間ができる。私はもっとその先の世界を見たい。日々の中に、熱狂をちりばめたい。
だからこそ、自己を確立して、した上で共感を生む。その時に広がる波紋は、まぎれもなく、豊かなエネルギーに溢れるはずだから。

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