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変わった後に、変わる前の話は書けない

自分自身が「変わっている」という変化を、まざまざと実感するのは久しぶりにかもしれない。



人生に「変わる瞬間」は色々ある。生活環境が変わる、服が変わる、友達が変わる、色々ある。
今回の私の変化は、自分と人生に対しての捉え方。所属組織が変わることで、人生の重点が「社会と組織に貢献すること」から「個人としてどうありたいか」に、ガラリとパラダイムシフトが起きていることを、身をもって体感している。


うーん。これは。
率直に言って、結構、しんどい。

果たして、何がしんどいのか?


まず、自分が「これは当たり前だろう」と思ってきたことが「そうじゃなかった」と気づくこと。

ずっと信じきっていたゲームのルールが、実は違ったよって言われる感じ。それによって、「え?私の今までってなんだったん????」という過去に対してのプチ絶望が起こる。ちょっとだけ後悔する。そして“自分"として生きていなかったことに、なんだか恥ずかしくもなったりする。


そして、急に大海に放り出されるような不安感もある。
そもそも、結構意志を持って生きてきたと思うはずなのに、思った以上に日々、他人を拠り所にして生きてきたことに気づく。何を頼りにすればいいんだっけ?と所在なさを感じる。「自分を拠り所にするんだよ」と言われても、意外とそんなもの、なかった。ということに気付かされる、虚しさ。「私には何もない」という、これもやっぱり、ちょっとした絶望。


私にとって、今回の"変化"はただの環境変化じゃなくて、「ずっとこうだと思い込んでいた人生の指針が崩れるような感覚」と、すべての余計なものを取っ払って存在として丸裸にされるような体験だった。


私の今まで、なんだったんだろー。とも思った。空虚、絶望、羞恥心、思い出したくない過去の体験、蓋をしていた感情…いろいろなものが、一気に湧き上がった。ちょうど、あの、すずめの戸締まりの、後戸を開けてしまう瞬間みたいな。過去に、見て見ぬふりをしていた“自分“なかの“黒い何か“が一気に噴き出す。私にとって、そんな時期だ。


そんな“脱皮“のような時間(メンバーには、“ダウンタイム“と称された)を経て、思うことは。
変わることを体験できる人は、それをギフトされた人にしかできない。ということだった。

たとえ、それが自分で望んで起こったものでなかったとしても、それでも、今その感情は自分のなかにある。それを味わうことは、味わえる人にしかできない。感情は、天からのギフト。だから、とびきり味わおう。そう思えた。

変化のない人生なんて、つまんない。
いつでも、変わり続けていたい。そう望んでいるのは私。それならば、目一杯満喫してやろうじゃないか。変化に伴う、いろいろな感情も、しんどさも、感動も、全部味わい尽くして人生を送りたい。だって、この世界には、きっとたくさん感動するために、感情を味わうために、降り立っているのだから。




・・・さて、なぜ、この文章を書きたくなったのか。

それは、人は変わった時、変わる前のことを、すっかり忘れてしまうものだから。


私の今の日常は、数年前に夢見た日常以上のものが叶っていた。
働き方、働く場所、人、ファッション、すべて。それなのに、私はもうすっかり、「変わる前のしんどくて苦しかった時期の自分」をどこかに置いてきてしまっていた。「こんな日常、抜け出してやる」という握りしめた悔しさや、終電で泣きながら自分を責めて帰った日々、「あの人みたいになりたい」という憧れと羨望が入り混じった感情。両手に抱えきれないほど、それはそれはもう、欲張りに持っていた。


そんな未来に夢を見ていた生活は、今、当たり前のように手に入れてしまっている。

手に入ってしばらくして、それが「普通」になっていることに気づくのだ。そしてその時、満たされたと当時に、あの頃の気持ちを忘れていた自分にハッとする。

大切な人が言っていた。大切なのは、「過去の自分を置き去りにしないこと」「過去の自分も一緒に連れていいくこと」。
そう。忘れてしまうことが、一番もったいないことなのだと。



変わる体験は、誰かの勇気になる。
自分が常に、誰かの勇気であればいいなとも思う。
それでも、今書くのは、ただ自分のために。この日、こんなことを考えて、葛藤していたというただの生きた証のために。


私は今日も書き続ける。「変わるのを夢見ていた」「悔しいと思っている」そんな自分が、今ここに存在することを、証明したくて。

ひいては、今の喜びのために。


私は、私のために、言葉を綴る。

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