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サブカル大蔵経665森和也『神道・儒教・仏教』(ちくま新書)

「江戸時代を受け継いでいる我々の日本の仏教」を読み解く大河の如き書。新書のレベルを超え、立つほどのぶ厚さ。

いかに今までの江戸思想史にレッテルが貼られていたかを、中村元の薫陶を受けている著者が諸文献を博捜し引用して提示。

浮かびあがる江戸時代の学問的な解放感と真摯さ、豊かさ。どうして、現代の宗教や思想は閉塞しているのだろう。

仏教や浄土真宗の可能性が江戸にあった。

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外面的に見れば、江戸時代は仏教が堕落したどころか、最盛期と呼んでも良い状況になっていた。p.19

 キリスト教禁教のための寺請制度による日本人総仏教徒化と学問研究の深化。結果、江戸時代は仏教全盛の時代となった、

中世以前には、一寺の中に異なる宗派が共存することがまれではなく、むしろ単位は〈宗〉ではなく〈寺〉にあった。これを宗単位に変える画期となったのが豊臣政権時代の千僧供養会である。具体的には八州(真言宗・天台宗・律宗・禅宗・浄土宗・日蓮宗・時宗・一向宗)に命じられるp.40

 寺>宗派。以前、修善寺の案内板に途中で伝派した記載があり、驚いたことがありますが、なんか自由でいいなぁ。

中江藤樹は儒者という新たな身分になる。もちろんそれは自称であり、社会的には浪人である。p.75

 「儒教という挑戦者」儒教の時代かと思いきや、それは政府レベルの範囲?

義門は、宣長の息子春庭に学んだ浄土真宗の僧である。義門は手に入れた国語学の知識を『真宗聖教和語説』『末代無智御文和語説』などの浄土真宗の宗典研究に応用している。p.119

 古典学としての国学は仏教を排除する事はなかった。仏教と国学の蜜月の時代。

仏教・儒教そのものすら「物の哀れ」に回収されていく。
「仏の、深く物の哀れを知れる御心より、衆生のこの世の恩愛に繋がれて生死を離るることあたはざるを、哀れと思すよりのことなれば、しばらくこの世の物の哀れは知らぬ者になりても、実は深く物の哀れを知るなり。儒道も心ばへは同じ事なり。さればこれらは常の物の哀れを知らぬ人と一口にはいいがたし。」
宣長の「物の哀れ」論は、したたかと言うしかない。/複眼的な思考を持っている。p.126

 宣長による物の哀れと仏教の関係。

篤胤の関心は日本という範囲に収まることなく、海外へと向かう。それは比較宗教学の萌芽を含みながらも、結局は肥大した日本に世界を取り込んでいく無制限の拡大主義なのである。篤胤が大東亜戦争のイデオローグとして迎えられた理由のひとつがここにある。p.142

 篤胤の執念の地球主義が、戦時中の拡大主義に繋げられていく。政治の利用。

篤胤は続けて玄奘の『大唐西域記』を引き「仏法は波羅門の道よりも大きに衰へた様子に見える」と、インドの土俗から遊離した仏教の衰亡の匂いを嗅ぎ取っている。p.144

 篤胤の文献学。その批評眼の現代性に驚く。

仏教がインドという風土で生まれたのであるならば、そのインドで衰えたのはなぜなのか。ここにはインドの風土と上手く合致していなかったのはないか、と言う底意がある。/仏教が何ら護国の教えとして効力を発揮していないというのは、近世人にとっては重大な批判であった。p.161.162

 天文学者・西川如見『町人嚢底払』での提起。江戸時代の研究の方が、今より批評的な感じがしました。当たり前を問う。

山片蟠桃『夢の代』異端第九「かりそめにも三千大世界十万の衆生などと大言を吐くといえども、/今考えるに、地球の内、仏のある国々は、大抵50分の1にもあるべからず。」「今盛んなるは日本のみ」(地理第二) p.164

 蟠桃の国際知識。江戸の知識水準高し。

玄海上人よ、あなたがその人の言葉を訳せば、鳩摩羅什や玄奘の訳より素晴らしい訳ができるだろう。p.203

 梵文原典からの再訳を勧める徂徠の探究心。仏教を徂徠が後押しする心強さ。イデオロギーよりも古文字学の手法。

中央の学林が唱える新義と、地方の在野の古義との対立ということになる。ここでは、勝利者は必ずしも《革新派》ではなく、勝者の側に立てば、中央の暴走を地方の《保守派》が正したと言う構造になる。p.224

 三業惑乱の構図。本願寺派のトラウマ?

日本天台宗から分かれ出た鎌倉新仏教が選択に向かったのとは異なり、中国仏教には綜合思考が伝統的にあった。/鈴木正三の弟子の草庵恵中が編纂した『反故集』巻下には、「ただ我を忘れて念仏申すべし。我をさへ忘れば成仏なり」p.230.232

 念仏禅の系譜。念仏と禅が分かれる理由は?選択より統合。その道を捨てた日本。

阿弥陀如来の本願を信じることの一点に突破口を開いた法然とその継承者親鸞の浄土教が、近代においてキリスト教と対応させて語られるようになるのは正当な理由があった。救済の決定権は阿弥陀如来の本願の側にあり、我々の側にないのが法然・親鸞の浄土教である。ここには《絶対》が横たわっている。法然・親鸞の浄土教の信者が常識的な作法に疎いこと言った「門徒もの知らず」とは単なる揶揄ではなく、日本社会とは《異質》なものであったことの標章である。p.289

 日本思想の中での〈絶対〉の異質さ。

『古史通』で行った作業によって、天皇は宗教性を奪い去られ、有徳の君主という道徳的存在に置換される。これが儒者白石の狙いであった。p.342

 白石による〈天皇〉の再編集。

この『神敵二宗論』(巻一之下)で「神敵」と名指しされる二宗とは、浄土真宗と日蓮宗である。篤胤は「この二宗ほど、わが神の道の妨げを為す者は無い」と断じている。その理由として「一向宗と日蓮宗と、伊勢大御神を祭り奉らず、また余神をも拝まぬ」ということを挙げている。p.372

 篤胤のお墨付き。

浄土真宗が近世社会に適応した、つまり反体制宗教でないことの証拠として見出されたものが「妙好人」であった。p.372

 理想的人格者としての妙好人の功罪。

篤胤の頃は、まだ国学は社会的には微々たる勢力であった。寺請制度によって幕府と一体化した仏教は圧倒的な力を持っており、篤胤の言葉は、この時点では蟷螂の斧に過ぎない。p.403

 当時は仏教>国学。そして尊王攘夷へ。

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