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サブカル大蔵経302長田弘『対話の時間』(晶文社)

読書論日本代表。対談を通して光る長田弘の妖刀。養老、岸田、鶴見などのメインエベンター相手にも堂々として斬り込み、話す。このためらいのなさはすごい。詩人は言葉との付き合い方が独特なのかなぁ。学者とも僧侶とも違う言葉の放ち方。

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どんなにおもしろい物語を熱中して読んだとしても、後にのこるのは、じつはきわめてあいまいな記憶のかたまりですね。そうしたあいまいな記憶のかたまり、あるいはかけらがのこるのが読書であって、何ものこらない本もあるけれど、読書という経験の根もとにあるのは、そうしたあいまいな記憶でつくられるゆたかな土壌です。p.11

〈あいまい〉でいいんだ…、いや、〈あいまい〉がいいんだ。これ、杉作J太郎さんを後押ししてますよ。そして、私もこの言葉に勇気づけられました。

人のもつ言葉というのを考えると、いちばん生き生きと生きてるのは何かというと、語尾ですね。本来、語尾には意味がないんです。だけれども、言葉のふるまいということでは、もっとも際立つのは、意味のないはずの語尾なんです。p.19

 これ、鋭いと思いました。語尾かぁ…。あ、たしかに、この「…ぁ」も、どこからか来たんですね。

本というのは、ある意味で、死体に似ていると思う。本が死体なら、読者はそこから育つ新しい草なんです。p.21

 地元に宮脇書店が出来たので行ってみたら、そこに並んでいた本は、たしかに他の書店とは違う品揃えだったんですけど、何かただ置かれただけのその本の群れに、圧倒的な死体感を覚えたことが忘れられません。

たとえば、引用するとするでしょう。そのときに記憶にしたがって引用して、それから元のにあたると、たいがい違ってますね(笑)/研究とか勉強の仕方として記憶による引用は間違いが多くて認められないだろうけれども、ほんとうは記憶による引用のほうが、その人にとって非常に意味がある。/私はこう読んだということなのですね。/間違ってても、それは自分の読み方なんです。言葉の読み手として自分で編集しているんです。p.32

 毎回こうやって読んだ箇所を引用させていただきながら、こういう「切り取り」に意味はあるのだろうか、著者に失礼なことをしているだけではないか、と考えています。できるだけ文体そのままにしてこんなすごい文章が載っている本があるんですよーと伝えたいだけです。

先日、花屋さんにいったら、小さいチューリップのような花があるんです。こんな小さい知らない色のチューリップがあったっけと思って、「これは何の花ですか」と訊くと、「チューリップです」「チューリップじゃないみたいですね」「チューリップのようなものが、いまはチューリップなんですよ」。花屋さんのその定義に、街に哲学者ありといたく感銘しました(笑)。p.62

 もっとストリートワイズが発見されていく時代になるといいです。街の哲学者。スズキナオさんの著作に感じられます。

20世紀はまったく名詞の時代で、次から次へと分断化された新しい名詞ばかりを、それこそ倦むことなく争って消費し続けてきた。漱石の三つの動詞を、いまだにものにできていないまんまだと思うんですよね。「考えよ。語れ。行え。」p.70

 名詞の時代…!自分は今、名詞と動詞、どちらを大切にしているだろう。仏教も名詞より動詞で語ってみたい。

植草甚一は灰にかえるものとして本を見ていた。p.149

 スクラップの原点か。

書き抜き帳っていう意味なんです。年をとった八十、九十の人が、手づくりのコモン プレイス・ブックをもっている。p.222

 まさに今自分がしていることです…。

遊びの話が忙しさの話からはじまるのが、日本なんです。とくに日本の場合、仕事= ビジネスと考えられていて、ワークではなくなってきています。ワークとしての仕事には、もともと遊びも必要も入ってるはずなのに、ビジネスとしての仕事によってもたらされた価値観というのは、ビジィ - ネス、すなわち忙しいこと、多忙であることが一番なんだということですね。ですから遊びに求められるのも、もっぱらビジィネスです。そうでないと価値がない。p.327

 プレイでもワークでもない、ビジィネスか…。プロスポーツも、プレイかワークかという判断があるが、もうビジネスしか感じられなかったらスポーツも飽きられる。オリンピックに電通や経団連がからむとシラけるのはこういうことかも。

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