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サブカル大蔵経155赤坂真理『東京プリズン』(河出文庫)

 格の違う迫力。何の迫力なんだろう。

 今の日本の成り立ちの責任を、大人の男たちが放棄し、少女に押し付け、背負わせた。その罪の意識を、小説を読み進めるうちに感じてしまう。全日本人の原罪。

 ディベートという米国式裁判の中、英語と日本語に挟まれながら、そこから紡がれる言葉をたったひとつの武器として、〈多様性の国〉の理知的なクラスメイトや先生も振り払う攻撃は、蘇る真珠湾か。

 結局何だったのかわからない戦争とヒロヒト。わからないまま死んでいった日本人と攻撃された外国人。そして、触れてはいけない共通の秘密が生まれて、数十年。

 返り血を浴びたアメリカに、話し合いの余地は生まれたのだろうか。余裕があるからディベートということが成り立つ。その欺瞞がぶち壊された時、お互い隠していたものが顕れてくる。それがキリスト教とアメリカの関係だった。

 アメリカが日本を蔑むように、私たちはアメリカを憐むのだろうか。

 たくさん付箋を貼り、たくさん抜き書きをしたのですが、一番迫力を感じた部分のみ引用させていただきます。

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「神は…神は全部偽物じゃないですか?フィクションでしょう、もともと?天皇だろうとキリストだろうと」(後略)その瞬間、そこそこから痛いほどのブーイングが飛んだ。この瞬間が、私がアメリカに来て、最も強いブーイングを浴びたときだったかもしれない。これほどの敵意を一身に受けたことはなかった。それが、キリストに関することであるなんて。驚いた。この物質文明のアメリカの人びとが、生身の大工の息子だったとほぼ認められている、イエス・キリストという人を本当の本気で神だと信じているのだった。一人の生身の人間の神性を信じているという点で、彼らと戦前の日本人の間にどれほどのちがいがあるのか。p.467-468

「だったら、キリスト教徒しか救われないというのですか?キリストその人は、愛を説かなかったのですか?イエス・キリストの言った『汝の隣人を愛せよ』の隣人は、キリスト教徒に限ってってとですか?キリスト教徒でないから原爆を落としてよかったのですか?キリストは、一度だって、人を裁いたでしょうか?…彼自身が、人に裁かれたではないですか?」(中略)「マリ、言いたくはないが君は救われた難い」(中略)「救われるって、誰にですか?キリストにですか?それを言うなら、キリストが私たちの罪を背負って死んだのだから、私たちみんな、罪がないはずではないですか?なぜ今でも争うんですか?キリスト教徒じゃない人たちがいるからですか?キリストはそんなことちっとも望んでなかったと思いますね!それにアメリカにだって内戦があったじゃないですか!同国人同士!キリスト教徒同士!(後略)」「本ディベートを打ち切るぞ」スペンサー先生がいらだって凄む。「□!」私はIと言おうとした。p.472



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