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サブカル大蔵経395加地伸行『儒教とは何か』(中公新書)

 葬儀の現場。

導師がなぜさっさと先に退場してしまい、なぜ出棺に立ち会わないのか。その理由は簡単である。仏教では、死者の肉体は、もはや単なる物体に過ぎないからである。/しかし、儒教は違う。儒教では、その肉体は死とともに脱けでた霊魂が再び戻ってきて、憑りつく可能性を持つものとされる。だから死後遺体をそのまま地中に葬り、墓を作る。それがお骨を重視する根本感覚となるのである。そうした儒教的立場からすれば、死者の肉体は悲しく泣くべき対象であり、家族(遺族)がきちんと管理すべき対象なのである。出棺のとき、仏教的には僧侶は関係がなく、儒教的には家族が関係し、その柩を運ぶのは、当然なのである。p.ⅳ

 私は読経後、遺族と一緒にお花を入れて、出棺に立ち会っているようにしています。それは儒教的な行いなんですね…。私は仏教的儀礼よりも儒教的なものを大事にしていたのかな…。

そういう一連の儀式全体を〈喪〉という。遺体を埋める〈葬〉は〈喪礼〉の一段階にすぎないのである。/儒教こそ葬儀を本分としている。この葬儀を通して、儒教は宗教へと一直線につながっているのである。p.ⅴ.ⅵ/日本人の祖霊感覚は実は仏教よりも儒教に近いのである。p.8

 「葬儀」とはもともと儒教であった。

祖先の祭祀、父母への敬愛、子孫を生むこと、それら三行為をひっくるめて〈孝〉としたのである。/ここに一つの転換が起る。自己の生命とは父の生命であり、祖父の生命であり、実は遠くの祖先の生命ということになり、/つまり、孝の行ないを通じて、自己の生命が永遠であることの可能性に触れうるのである。p.19.20.21

 無常の命の限りなきアミタのつながり。

墓参りは本来儒教であり、墓の掃除も彼岸や盆とは関係がない。p.224

 仏教の日常風景は実は全て儒教と老荘。本書は、儒教の影響力の大きさを説きながら、加地師の仏教への叱咤激励と読みました。逆に仏教がすべてを飲み込んだのか?

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死後なんとかしてこの世に帰ってくることができることを最大願望とせざるをえない。p.17

 六道輪廻の解脱よりも、現世LOVE

墨家は兼愛、儒家は別愛を説く。儒家は、愛情は親しさの度合いに比例するとする。すなわち最も親しい人を最も愛する。ごく常識的な考えである。/博愛者ならばその立場から言って見知らぬ人の死を悲しむことになる。しかし儒家はそれを偽りだとする。p.71

 この文章を読んで、墨家の理想的な兼愛や仏教の慈悲よりも、儒教の〈常識的な考え〉に正直惹かれました。

喪礼こそ一般人の礼の中心である。p.71

 礼は死を基に。この礼は荀子とは?

儒家は遺族のみ喪服、一般人は平服。p.73

 僧侶の葬儀での遺族の服装に近いか。

孔子は小さな愛だった仁を、積極的な他人への愛に転換した。p.81

 仁を拡大した孔子

孔子、常識の肯定。→形式主義への堕落→反儒教(墨家、老荘)p.109

 儒教も礼儀も形式主義になると…

儒教は死についてはその運命を受け入れるだけで無抵抗であるのに対し、道教は死に対して挑戦し具体的な延命を教える。気功術やは太極拳はこの系譜上にある。p.173

 この比較解釈面白い…。

儒教-子孫の祭祀による現世への〈再生〉-招魂再生

道教-自己の努力による不老〈長生〉-不老長生

仏教-因果や運命に基づく輪廻〈転生〉-輪廻転生。p.174

 この比較もわかりやすいです。

 再生か長生か転生か。

儒教の宗教性はしぶとく残っている。/毎朝私は仏壇の前で、崇仏(仏教)と慰霊(儒教)を行っている。p.224/〈ホテル家族〉となる大きな理由の1つはおそらく仏壇や墓に対して関心がなかったり、法事や墓参りをしない家庭であろう。p.225

 仏教を否定するのではなく、仏教が廃れたことを嘆いておられるお言葉も。

仏教では死後の肉体には何の意味もないはずであるから、真の仏教信者なれば遺体を臓器移植用に提供できる、いや即座にできなければおかしいのだが、抵抗してくるのは儒教感覚だからである。p.230

 脳死や臓器移植問題では、仏教よりも儒教感覚を念頭に倫理委員会などでは論議する必要があると。

老子では、子供の無邪気さを最高の善とした。大人は虚飾をまとっている。老子は、儒教が人工・人為を重視したことを批判した。逆に自然を尊重した。儒教は自然は未開・野蛮なものであり、人間の手が加わった人工・人為的世界こそが優れたのものだった。/だから儒教のもとでは、子供は教育されなければならないということである。p.232

 そうか、鎌田東二さんの「翁童論」は老子的発想か。儒教的思想の限界に疑問を呈する発想だったのかもしれないですね。

お上に対してべったりと甘えてぶら下がるのが我々儒教的民衆である。干渉するなと言いながら政府は何をしていたのかと声高に責める。本質的には政府のご指導と御加護を乞い願うと言う習性が抜けきらない。p.242

 お上体質も儒教なのか…。まさに今のコロナ禍状況か。

東洋人には自然との一体感があるとよく言われるが、それは老荘感覚であって儒教にはない。p.246

 やはり儒教は面白い。現代の謎のほとんどは儒教で解けるのでは?そして、なぜ仏教感覚と現場の隔たりがあるのか、それは儒教が大きな力を持っているからだと再認識できました。


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