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サブカル大蔵経494内澤旬子『身体のいいなり』(朝日文庫)

『飼い喰い』『捨てる女』と重なる答え合わせのような、絞られるようなエッセイ。

同時に、著者が屠殺や豚やモノや身体を通して、人間存在そのものを問うた作品で、〈ライター〉から〈作家〉に脱皮した作品のような気がしました。文章の迫力がさらに揺るぎないものに。

四度の手術で私が得たこと、それは人間は所詮、肉の塊であると言う感覚だろうか。何度も何度も人前で裸にされて、血や尿を絞り出しては数値を測って判断され、切り刻まれ、自分に巣食う致死性の悪性腫瘍と言う小さな細胞を検分されるうち、自分を自分たらしめている特別な何かへのこだわりが薄れてしまった。人間なんてそんなご大層なものでは無い。仏教の僧侶が言う通り、口から食物を入れて肛門から出す、糞袋に過ぎない。私のように意志ばかり肥大させて生きてきたような人間には、それはちょうど良い体験だったのかもしれない。独立した存在であるように思っていた精神も、所詮、脳という身体機能の一部であって、身体の物理的な影響を逃れることはできない。私はそれをあまりにも無視して生きてきたんじゃないだろうか。ただし意志だけで生きてきたこれまでの人生、身体は辛かったけれども、楽しいこともたくさんあった。体(と生活)を極限まで無視した分、得がたく面白いことを見られたし、学べたと言う自負はある。でも癌を作るまで(?)身体を本気で怒らせることになったのはまずかった。癌を通じて、私の意志は一度身体に降参し、身体のいいなりになるしかなかったのだ。だから、これらの体験は私にとっては病との戦いというよりは、意志と身体との闘いであったと思う。これからは双方並び立つうまいバランスを取るように再構築していかねばならない。p.221

 この文章、教科書に載せてほしい。

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癌と診断された直後、私も1日くらいはネットサーフィンをしてみた。んが、あまりの情報の多さに吐き戻しそうになってしまった。面倒くさくなってしまったのだ。p.82

今の時代、みんなが体験しているであろうネット宣告。嫌なんだけどしてしまう。

とってしまった乳房のことを、ずっと彼女のように、誰にも言わないまま、言えないまま、惜しみ続けていくんだろうか。切らずに居られたのではないか、切る必要のないものを切り捨ててしまったのではないかと。それはひょっとして結構うっとうしくないか?p.150

 いなくなってしまった自分

顰蹙を買うのを承知であえて言わせていただければ、生きてるだけで幸せだともまるで思えなかった。決定的に不幸、と言うほどではないけれど、これだけ落ち着かなく不快な気持ちのままで、生きる幸せを味わう精神的余裕はなかった。p.189

 内澤さんの乾いた明るさの裏返し

切ってもらった医者に最後まで診て欲しいと言うのは、家を建ててもらった大工さんにずっとメンテナンスをしてもらいたいと願うのと同じ位ぜいたくな願いになりつつあるのかもしれない。診ることと看ることの境界を、私たちはどうしても混同しがちだ。p.208

 〈診ることと看ることの境界〉かー。これは名言だなぁ。私の父も今この状態なので、すごく感じ入りました。

そりゃあねー、そういうものですよ。私だって作ったまんこを何百回鏡で見たことか。日本で1番自分のまんこを眺めているんじゃないかと思いますよ。と慰めてくれたのは友人の能町みね子さんだ。p.214

 内澤さんと能町さんが『捨てる女』で、千葉のスナックで呑むシーンが好きです。

トスカーナ。隣の店の主人の毎朝の挨拶が、おお、まだ生きてたか!なんですね。そういう言語感覚で、基本的にはすごくブラックだけど、そこまで手を突っ込んで揺さぶることを楽しむと言う感覚がある。日本に帰ってくるときれいに死が隠蔽されている。気持ち悪いと思いました。だからこの本を読んだ時はすごく気持ちが良かったですよ。p.239

 あとがきで対談した島村菜津の言葉

 

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