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サブカル大蔵経173開沼博編『福島第一原発廃炉図鑑』(太田出版)

 30年前頃、全国を鈍行列車でまわってた時、車窓から見える風景が楽しみで、窓の外をかぶりつくように見ていましたが、唯一居眠りした区間がありました。それが常磐線の原ノ町-平(いわき)間でした。

 居眠りするくらい平坦な風景。観光のない空間。そこが、浪江、双葉、富岡…。そこを日本は狙ってきた。東京電力の原発建設。福島県こそ東京のサブであり、日本のサブだったのだろうか。それが顕れたのが、原発危機だったのだろうか。

 旅してた時、東北本線で福島に入ると急に東京の車両になった感じがしました。四人掛けのシートでなく、長シートの向かい合わせ車両。東京と直結してるんだな、とその時感じました。福島の立ち位置。会津は江戸幕末期に天皇や幕府を支え、裏切られ、中通り・浜通りは、現在の東京を支え、また裏切られたのだろうか。

 本書は、著者たちが現在の「フクイチ」をデータやイラストをふんだんに使って開放する試み。体制側でも反体制側でもない両方から嫌われるスタンスを貫く。現在進行形の毎日をルポ。世界中の外野に、まずは現状を知ってもらう。果たしてこれで噂は断ち切れるのか。

 現場の現状も経緯も知らないのに群がるマスコミや知識人に対して苛立ちの描写が多い著者たち。その苛立ちはいつの頃からなのか。苛立ちは、恐れと哀しみと怒りの裏返し。コロナ禍の現在、ようやく頭に入ってきました。治療と経済。被ばくと復興。目に見えない、自覚のない感染。世界中がフクシマになったといえるのかもしれない。今こそフクシマは発信できないのだろうか?

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浜通り、中通り、会津地方p.19

 初めて福島県に泊まった時、ニュースの天気予報も新聞の地方欄もこの分け方で、衝撃を受けたことを覚えている。いかにその地方のことを他の地方の人は知らないか。そしてそれぞれの地方の言葉があるということ。そこに歴史があるということ。

ステレオタイプ、大変なこと、の繰り返し。正常より異常を、日常より非日常を追い求めるセンセーショナリズム。見えないバケモノほど怖い。p.29

 コロナ禍の現在の私たちは、日常を取り戻せないでいる。非日常と日常のせめぎ合い。どちらかに傾くと、擁護するか、傷つけることになってしまうことになるのか。

活動の中に社員が仲間に入れていただいて、東電石崎芳行インタビューp.283

 東京電力の人たちの〈受け身〉。いまだにわからないのが、政府と福島県と東電の関係。この〈関係〉を紐解くことは本書の対象ではなかった。

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