見出し画像

サブカル大蔵経276エマニュエル・レヴィナス/フィリップ・ネモ西山雄二訳『倫理と無限』(ちくま学芸文庫)

ブッダの再来かと思いました。哲学の本で初めて「びっくり」しました。レヴィナスは内田樹さん関連で名前を知ってるくらいだったんですが、この時代にヨーロッパでここまで考える人がいたとは。

倫理のすごさと怖さ。自己を成り立たせる他者という存在への絶対的な責任感は孔子の仁に近い感じもしました。

レヴィナスを研究される内田樹さんの思想行動原理もここにあるのかと思った。

画像1

私たちは決して単独で実存しているわけではない。私たちは様々な存在や事物に取り囲まれ、それらと様々な関係を維持している。視覚、触覚、共感、共働を通して、私たちは他者たちと共にある。このような関係は全て、他動詞的なものである。p.68

 他者と私。関係の中の私。東洋的?

私の責務は倫理学を構築することではありません。私はもっぱら、倫理学の意味を探求しようとしているだけです。p.114

 倫理はマニュアルではなく、倫理とは何かを考えること。仏教も同じだと思う。

(他者が自分たちのなすべきことをしないとしてもそれは私のせいだと言うことでしょうか。)私は自分の被る迫害に対して責任があります。/私の近親者や私の民族はもうすでに他者であって、彼らのために私は正義を要求するのです。(そこまで言ってしまうのですか!)なぜなら、私は他人の責任に対してさえ責任をとっているからです。p.126・127

 対談相手の驚愕の台詞。ラジオ番組の収録の文字起こし。すごい番組してるなぁ。

自我と言うものはその「一人称」から身を引き離すことなく、世界を担っています。主観性は、他者に対して責任を負うことを主観性に帰する運動そのものを通じて構成されるわけですから、他人のための身代わりにまで行き着くのです。主観性は人質の条件ーあるいは無条件ーを引き受けます。主観性そのものがそのものの人質であって、他者のために罪を贖うところまで責任を持つのです。こうしたユートピア的な考え方、自我にとって非人間的な考え方を披露すると、ひんしゅくを買うことになるかもしれません。p.127

 私は他者に責任を持ち、他者の身代わりとなり、他人の為の罪の償いまで負うと。まるで阿弥陀如来の前身の法蔵菩薩のようです。レヴィナスのこの発想はどこから来るのだろう?そこまで負うて、私が存在していいのだと。なぜそこまで私を追い詰めるのだろう。

倫理的な関係によって、私たちは存在の孤独から脱け出します。p.131

 その関係により孤独が解消される。それを倫理というのか。

〈無限〉は命令し、その意味で、内面的なものなのです。p.140

〈無限が命令する〉は、別名〈南無阿弥陀仏〉かな?

私は存在する権利があるのでしょうか。世界の中に存在していることで、私は誰かの場所を奪っているのではないでしょうか。存在に対する素朴で自然な執着を疑問視するべきです!p.157

 私の存在が、ある場所を奪っている…。そんなこと考えたことなかった私は…。

この記事が参加している募集

#読書感想文

189,460件

本を買って読みます。