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サブカル大蔵経344鷲田清一『じぶん…この不思議な存在』(講談社現代新書)

なんとなく自分がこの体の皮膚の内側にあると思い込んでいる。p.48

 学生の頃はじめて本書を読んだ時、自分というものが、自分の内の中ではなく、自分の外にあるかもしれない、という問いが非常に印象に残りました。

自分が誰でもなくなると言う安らぎ、心地よさ。p.87

都会の雑踏の中で自分を知る者がいないという快楽。〈自分〉はない方がいいのか。

わたしがわたし自身であるためには、彼・彼女が必要である。p.113

〈わたし〉ということばの存在の危うさと、かけがえのないありがたさ。

 鷲田哲学に出会えた新書。

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眠る前の自分と目覚めた後の自分とが同じ自分であると言う証拠がはっきりとあるわけでもないのに、眠りの前後で自分は同じこの自分だと言う意識を捨てない。p.16

 これ読んでから30年たちましたが、その時は自分が実はそんなに堅実な存在ではないということがおぼろげにわかり、恐怖というかマイナスの感情を覚えましたが、今はプラスに考えられるようになりました。〈いのち、まいにち、あたらしい〉んだと。

自分の体について、ごくわずかなことしか知らない。背中やお尻の穴をじかに見たことがない。他人が私を私として認め、覚えてくれるその顔をよりによって当人であるこの私は一生見ることができない。/その顔は私の顔と言うよりむしろ他人が見るためにあると言ったほうがいいくらいである。p.18.48

 身体をもて余す〈わたし〉という存在。なかなかいたわれない自分の身体。

フランケンシュタインの怪物は行く先々で人々から怖がられ追い立てられる。彼には、呼びかけてくれる他者が存在しないの(これが名前がないことの意味である)。p.92

 マイナンバーカード社会もそうなるか?

私たちは他者から少し距離をとると穏やかで思いやりもあるのに…p.108

 距離感の大切さ

たとえ私が死んでも、誰かが時々私のことを思い出してくれる限りで存在すると言うのかもしれない。p.160

 生きているということの範囲。二度死ぬわたし。

自己というものを《他者の他者》として規定したこれまでの議論からするならば、いかなる他者も最終的に存在し得ないと言うことになれば、結局〈わたし〉というものも存在しえないということにならないだろうか。〈わたし〉ははじめから死んでいるのだ、と。p.163

 この大命題を胸に秘めながら僧侶として通夜葬儀に立ち会ってきた気がします。その上で故人が生きてきた意味をみんなで浮かびあげる。それが〈往生〉なのかもしれません。

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