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サブカル大蔵経996渡辺照宏『涅槃への道』(ちくま学芸文庫)

晩年の先生が身命をかけて完成したこの『涅槃への道』は、奇しくもそのまま先生の涅槃への道ゆきとなったのであるp.339

宮坂宥勝さんが後記でそう述べた本書。1974年から1977年まで「大法輪」で約三年間のにわたって紡ぎ出されたもの。
誰に向けて書かれた〈遺言〉だったのか。
本当の釈尊、本来の仏教を伝えたい。

インドの仏跡に不似合いな石燈籠を建てたり、日本式梵鐘を持ち込んだりするバカ者がいるという話だ。無知ほどこわいものはない。p.55

岩波新書『仏教』を読んだ時の衝撃も忘れられません。現代の大乗仏教の日本の僧侶には厳しいイメージだった渡辺照宏先生。

仏教教団は全て俗世界を捨てた者たちの集まりだったから、葬儀などに関係しないのは当然だった。まして葬儀の報酬を生活の手段とするなるどということはインドの仏教教団では夢にも考えられないことであった。p.206

いわゆる葬式仏教論争では、僧侶が葬儀に携わることはあり得ないとの見解。しかしこれはインドの出家者は職につかないゆえ葬儀という世間の仕事はできないということのように読めました。

本書を読み返してみると、叱咤もあるが、ノスタルジーやフォローが目立った優しい本でした。文章的には頑固親父のようで、かえって可愛げを感じました。

[付記]「涅槃への道」は原則としてパーリ文『マハー・パリニッバーナ=スッタンタ』の本文に準拠し、漢訳阿含部の『遊行経』とその異訳の『涅槃経』をあわせて参照する。なお漢訳の大乗の『大般涅槃経』は考慮しない。p.25

大乗は考慮しません。

それ以来、仏陀シャーキャムニは多くの弟子を連れて王舎城と舎衛城とのあいだを何回か往復された。/ご生涯のあいだの教化活動は大体この道路の沿線に限られていた。p.24

釈尊の伝道はインド全土ではないんだ…。道を、行ったり来たりだったと。その往来ルートにもインドの情勢の中での理由がありました。

それは世尊から敵側の情報を探り出すことである。p.30

マガダ国の阿闍世が敵国の情勢を尋ねる。スパイの役割として扱われた釈尊。

仏陀の言葉を引用するときは、いつどこで、どういう場合に説かれたかということを考慮しなければ誤解を招く恐れがある。p.35

自説の補完として使用する危険性。学者としての当たり前の渡辺イズム。

商業都市ヴァイシャーリーにも仏教の信者が多かった。世尊も彼らを愛していたように見えるが。教団の統制には必ずしも従わなかったように思われる。p.71

『維摩経』の維摩はヴァイシャーリー在住とのこと。ガンジス河北岸は自由な気風の都市。仏典の地理学解釈が新鮮。

アーナンダが十六回もチャンスを見逃したという。しかし漢訳諸本にはこの記事はない。アーナンダの教団における立場は微妙な点があり、彼の純情とのマハーカーシャパの理知とは必ずしもしっくりいかなかったようである。p.117

イジられキャラ、凡人として寄り添うアーナンダ。それは私たちの視点でもあります。ホームズにとってのワトソン。アンにとってのダイアナのように。

「チュンダよ、残りのスーカラ=マッダヴァは穴に埋めるがよい。チュンダよ、私の見るところでは、天・魔・梵にせよ、沙門・バラモンにせよ、およそ神でも人でも、これを食べて正しく消化できる者は如来外にはいない。」p.146

欧州の研究者のあいだの〈スーカラ=マッダヴァ論争〉について、渡辺先生は丁寧に詳しく説明してくれています。豚肉、腐った豚肉、キノコ、毒キノコ、トリュフ。

なおマハーチュンダまたはチュンダという名のビクがいたことが知られ、尊者シャーリプトラの弟または弟子というが、これは鍛冶職チュンダとは別人であろう。p.180

チュンダ。このキャラも気になります。アーナンダが釈尊の側を少し離れた時は代わりに側にいたシーンもありました。前回紹介した佐々木閑さんの本で触れられていた舎利弗の葬儀にいたチュンダは、釈尊の所に現れたチュンダとは別人ではないかと。

実際にシャーキャムニがこのように説かれたのか、と問われれば必ずしもそうとばかり断定するわけにはゆかないであろう。p.210

釈尊は本当に自らの葬送の方法を指示したのかと。それ言っちゃっていいのかな?^_^

僻支仏は"プラティエーカブッダ"の音写で"自分ひとりだけ覚った人"。/必ずしも人間ぎらいではなく、人々から尊敬されていたことが物語に出ている。p.221.222

〈独覚・縁覚〉というカテゴリーに親近感を持つ身としては嬉しいフォローでした。

「ビク衆がアーナンダに遇いに来て、遇っただけで満足し、もしアーナンダが法を説けば説かれたことで満足する。ビクたちよ、ビク衆が聞き倦きないうちにアーナンダは黙ってしまう。」p.239

釈尊の説く〈アーナンダ伝説〉。
やはり、モテそう。
話が短いのもポイントかも。

後世になっても尼僧教団はアーナンダを祭る習慣だった。p.241

女性を切り捨てた釈尊にないものを持つ、アーナンダ。私もずっと思っていました、なぜアーナンダ教は生まれなかったのか。でも祀られてたんですね。

わが国でもパーリ語の学習者は協会編の辞典をほとんど唯一の指針としているようであるが、これほど頼りにならない辞典は珍しい。p.247

〈パーリ・テキスト・ソサエティ〉〈PTS〉という言葉を学生時代によく耳にしました。この出版社のパーリ語の辞書が研究室にありました。パーリ語を調べるのに英国の力を借りるんだ…と思った記憶があります。

ひとりタイ本には「伴を連れずに」とある。恐らく誤りであろう。p.260

タイ本のヴァリアントまでチェックされてる…。すごい。ここまで書誌学的な手順を踏まえて本が出せるわけですが、現代の書籍はさらに細分化してるか、我田引水か。

「アーナンダよ、私の滅後にチャンナというビクにブラフマ=ダンダという重い罰を与えよ。」p.282

釈尊は死ぬ間際に、この文言を遺したと。ブラフマ=ダンダとは、ひたすらシカト、無視すること…。渡辺先生は学生時代にこの箇所を読んで釈尊の厳しさに驚いたと。しかし、これで問題児・チャンナは奮起して更生したとのことです…。経典は面白いですね…。

「もうこうなれば、われわれは、やりたい事をやり、やりたくない事をやらないですむ。」p.314

スパドラという年寄りの仏弟子が釈尊入滅後に叫んだ台詞。あえてこのエピソードをぶち込んでくる涅槃経のリアリズムと、仏教の深謀遠慮。


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