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サブカル大蔵経942J・ウォーリー・ヒギンズ『総天然色 ヒギンズさんの北海道鉄道旅』(北海道新聞社)

50年前、今は亡き旭川電気軌道に乗るためだけに旭川に来た生粋のマニアがいた。

米国の軍人、ヒギンスさん。彼のおかげで、貴重な資料が50年後の私たちに届けられました。

本書は、貴重なカラーフィルムを持っているただの金持ちが道楽で全道を観光したスナップの写真集ではありませんでした。

一枚一枚に、この風景を残しておこう!という意図が感じられる写真ばかりでした。

鉄道が消えていく運命ということを知っていた、タイムマシンでやって来た未来人からのプレゼントのようでした。

ヒギンスさんの写真が世に出る奇跡的な物語も掲載されています。愛知県に保存されているとのことです。

本書は個人的に、旭正、北24条、札幌別院などゆかりのある地の写真が満載で、かなり衝撃的でした。

これからも読むたびに発見があるような本だと思いますし、読む人によってそれぞれの想い出に出会える、玉手箱なのかも。

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 初めて北海道を訪れて、何を楽しんだかといわれれば、電車の支線や簡易軌道だった。山や湖といった観光名所は、その気になれば後からまたいくらでも見ることができる。
 鉄道はそうではない。道路が整備され舗装される以前でさえ、すでに一部の鉄道は姿を消し始めていたから、遅かれ早かれ消えていく運命にあると思われた。そして、この時楽しんだ多くの鉄道は、今はもう見ることさえできなくなってしまっている。
p.3

 鉄道ファンの鑑。まさかこんな宮脇俊三さんみたいな方がいたとは。そして、鉄道とは消えていく運命だと自国の状況を踏まえて考えていた。現在その通りになった。今の北海道の廃線ラッシュは50年前から予言されていたのかと思うと、やみくもに廃線に反対することもできない。

夕張鉄道の新二岐駅から角田炭鉱の事務所前まで、わずか4.7キロの専用鉄道は電化されていて、元旭川市街軌道のポールカーの電車が走っていた。p.45

 旭川電気軌道、夕張に行く。

私の写真は鉄道が中心だが、特に地方の鉄道を撮ったものが多い。「どうして、そんな遠くまで足を運んだのか?」とよく聞かれる。一番の理由は、私が当時の一般的な鉄道よりも、簡易な軽便鉄道に関心があったからだ。車体そのものが軽く、安価に建設できた軽便鉄道は、森林鉄道をはじめ、地方の物資輸送などに使われ、人々の生活を支えてきた。
 当時、祖国アメリカでは鉄道の多くは、モータリゼーションの波に押されて、消えゆく運命にあった。それが、日本に来てみたら、本来の役割をしっかり果たしている姿がまだ残っているではないか。うれしかった。p.92

 日本人がアジアを鉄道で旅した時、日本で使われていた車両が現役でいることに喜ぶのと似ているような。いわゆるオリエンタリズムな視線もあるのかもしれません。そう考えると、今の日本人が写した鉄道写真が50年後のアジアの人たちに懐かしがられる時が来るのかな。

1957年(昭和32年) 5月23日、初めての北海道旅で一番遠い町、旭川を訪れた。その目的はただひとつ。旭川電気軌道を見るためである。/旭川から旭山公園まで8キロの道のりを28分かけて移動し、また旭川に戻る往復約1時間の旅。それはとても心に残る旅であった。p.143

 ただ往復乗るだけの旅!まさに宮脇俊三がここにもいました。旭山動物園はまだ当時はなかったんですね。

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(p.9)鶴居村営軌道。

当時の日本人でわざわざ軽便鉄道を旅行目的として訪れるような人はいたのだろうか?旅行書にも時刻表にも掲載されていないまさに地元の人のための交通機関。今なら「路線バス乗り継ぎの旅」に出てくる地域の巡回バスのような存在か。

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(p.76)おそらく本願寺派札幌別院か。

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(p.72)百貨店の丸井さんは、◯に井!

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(p.65)北24条駅。山口医院は私が学生時代住んでた時も看板見たことがあるような。

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(p.147)旭川電気軌道旭正駅。

祖母の実家の最寄り駅でした。昔よく乗って旭川に行ったと話は聞いていましたが、まさかこうやって実物を拝めるとは。

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(p.155)当時の旭川四条通りか。

函館も札幌も現役なのに、どうして旭川の路面電車はなくなったのか。今は旭山動物園も東川も観光地。旭川電気軌道は、旭川と両地点をそれぞれ結んでいた路線なので、廃止しなかったらドル箱だったかも。

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